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2019年8月

2019年8月18日 (日)

主なる神を味わう 詩篇34:1-22  2019.8.18

 きびしい残暑が続いています。子供のころ、母親の実家で飲んだ清水のあの冷たさと、のどを通る時のおいしさを思い起こしてしまいます。

 表題から推測すると、ダビデがサウロに追われて逃げているとき、祭司アヒメレクのもとに身を寄せて、頭がおかしくなったこと(3版では「気が違ったかのように」)が本詩篇の背景にあると思われます。その物語は1サムエル記21章にありますが、こちらでは、アヒメレクから逃れてガテの王ラキシュの下で頭がおかしくなったようにふるまったとあるので、表題と内容は関連がないという説もあるようです。しかし、ダビデの逃避行という苦しみの中でこの詩篇がうたわれたと理解するほうが、リアルに読むことができると思います。

 本日のみ言葉によれば、私たちは神様の素晴らしさを味わうことができるというのです。神についての概念や聖書の教えを頭だけではなく、体全体を使って味わいなさいと命じられています。苦しみの中でも、いやそのような時こそ主なる神様の素晴らしさを味わえというのです。素晴らしさと訳されている言葉は、多くの英語聖書ではgoodとなっていました。そういえば、英語クラスで良く歌う“God is so good!”の日本語の歌詞は「主は素晴らしい~」となっていました。他の日本語聖書を見ると、慈しみ深い、恵み深い、優しい方などの訳がありました。この夏、自分の家を離れて海や山に出かけられた方もあるでしょう。そのような場所で、神様の素晴らしさを体感できたのではないでしょうか。あるいは、ひと夏の経験や行った先での出会いを通して、神様の素晴らしさを感じたということもあるでしょう。

 私たちは、そのようなことと共に、書かれた神の言葉である聖書にふれることによって、神様の素晴らしさを深く味わうことができます。詩篇119:103 「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とある通りです。しかし時にみ言葉は、私たちに鋭く切り込んでくることもあるのです。へブル4:12,13 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 この夏、私の神学校だけでなく、高校の大先輩の牧師先生との出会いがありました。その先生は、毎朝み言葉を揮毫され、ブログにアップされ、ひと月ごとにそれをまとめておられるのです。神を味わい、み言葉を味わうことの幸いを改めて教えてくださいました。今週、どのような神様のすばらしさを味わうことができるか、楽しみですね。

 

 



2019年8月 4日 (日)

罪の告白と赦しの幸い 詩篇32:1-11 2019.8.4

関東地方も梅雨が明け、厳しい暑さが続くようになりました。本日の聖書にあるように、夏の日照りで骨の髄まで乾ききった感じがいたします。

パウロによるローマ人への手紙4:78には、本詩篇をダビデの作として「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」と引用されています。確かにこれは、幸いなことです。マタイ5章にある山上の説教の最初の部分、八福の教えも「幸いなことよ~」で始まっていることと同じような書き方です。

3,4節は、罪を認めながらもそれを告白できない苦しみが描かれています。罪とは、もともとの意味は神様のみ心からずれて、自分勝手な思いを持って行動することを表します。そして、個別に犯すいろいろな罪があるわけです。その罪、あるいは罪意識を持ったまま、人にも神にもそれを明らかにできないことは、大きなダメージをその人に与えます。骨髄は人の血液を作るところですから、そこが干上がっているということは、霊的に死んでいることを暗示しています。しかし罪を思い切って告白し、赦しをいただくことは、命の回復となります。人との関わりあいにおいても、同じようなことが言えます。

カトリック教会では、罪の告白と赦しを教会の七つの秘跡の一つとしています。このゆるしの秘跡には、痛悔と言って罪を深く悲しみ捨てる決意をすることが含まれます。そして大切なことは、この痛悔が自分のだめさ加減を嘆くことに基づくのではなく、神様の愛に基づいているということです。私は、このことは聖書が教えていることであり、宗派に関係なく、すべてのキリスト者が心にとめることだと思います。あなたがある人に謝罪したとしても、その相手が許してくれなかったり、かえってその不義を逆手にとって攻撃してきたらどうでしょうか?罪を告白して謝罪したことは、かえってその人を不幸に陥れます。相手が不真実だったからです。

しかし、私たちの告白を受け入れてくださる神は真実な方で、愛のお方です。それゆえ、その罪を赦し、「あなたの罪は赦された、もう罪を犯してはいけませんよ」と言ってくださるのです。そのような経験をした人は、二度と同じ罪を犯さない、と決心をするのです。5節はこの詩篇の中心のみ言葉ですが、以上のことを語っているのです。神に罪を赦していただいた、その心を持って、他の人を許していく、これが国や国境を越えていくときに、真の和解が成り立つのではないでしょうか。

1ヨハネ1:9  もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

 

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