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2019年12月

2019年12月29日 (日)

なおも神を待ち望む  詩篇42:1-11  2019.12.29

今年もはや暮れようとしています。2019年は元号が平成から令和に変わった、私たちの国にとって一つの時代の節目だったように思います。今年は、あるいはあなたにとって平成という時代は、どのような時だったでしょうか?そんな振り返りの中で、新しい年を望みつつ、み言葉に心を留めてみましょう。

表題にある「コラの子たち」は、かつてモーセとアロンに逆らって大地に飲まれてしまったかつての祭司コラの子孫のことです。ダビデの時代には名誉が回復されて、礼拝において音楽を担当し、門衛をするなど大切な役割を担わされていました。あなたのご先祖様がたとい酷いことをしていたとしても、そのようなことに引きずられることなく、あなたのところで悪しき鎖を断ち切り、子孫として名誉ある地位を回復することができるのです。

鹿が谷川の水を慕いあえぐように、私たちも神を求めている、ということが歌われています。この言い方は、本篇を知らなくても、聞いたことがあったかもしれません。自分を鹿に例えているのですが、私たちの知っている鹿はどのようなイメージでしょうか。尺八演奏曲の「鹿の遠音」や百人一首の歌を参考にすると、どちらかというと人目につかず、寂しさやわびしさを感じる動物ではないでしょうか。もっとも、奈良公園には人懐っこい鹿がたくさんいるようですが。1節は、新共同訳聖書が「涸れた谷に鹿が水を求めるように」と訳しているように、ここでは、渇きの中でわずかにしかない水を必死で求めている鹿を、自分の姿として表現しているのです。なので、5節、11節、そして43:5に、絶望し思い乱れながらも、尚神を求めている魂の叫びとも言ってよい表現があるのです。心が渇いていることは、不幸なことではありません。むしろ「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6)とあるように、幸いなのです。水分が欠乏していることを知らずして脱水症や熱中症になることがありますね。自分の心の渇きに気が付かない危うさと、渇いていることを認めない傲慢さが、霊的な死に至らすことになるのです。毎日のデボーション(聖書と祈りの生活)が、人の渇きを潤し、命を与えるのです。

この詩人が幸いなのは、自分の苦しさを知りつつ、神を待ち望んでいることです。信仰心があるのです。人は自らの中に、相反する思いのあることに気づくでしょう。それでもなお神を求め、神の御業があらわされることを待ち望んでいく姿は、前にむかって自分の心と体を伸ばしていく、文字通り前向きの人生なのです。

過去のことにとらわれず、希望をもって新しい年を迎えられますように。

 

2019年12月15日 (日)

待つことの忍耐  マタイ1:18-25 2019.12.15

主イエス様の降誕物語は、なにかにつけて母マリアにスポットが当たるようです。しかしそこには、ヨセフがいたことを忘れてはいけません。今朝は、地上の父となったヨセフに思いを向けてみましょう。

ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあり、神が人となってきてくださったことが示されています。主イエス様のご降誕の意味、私たちへのメッセージが示されています。その一方で、マタイの福音書にイエスキリストの系図があることは、イエスが人としてお生まれになったことのもう一つの証しとなっています。

18節に、マリアは聖霊によって身ごもったことが分かったとありますが、時間的には次の19-24までのことであると思います。紀元1世紀にいたとはいえ、ヨセフも女性がどうしたら妊娠するのかということは、ちゃんと知っていました。婚約者であるマリアが妊娠したということは、自分はまだ一緒になっていないのですから、他の男と寝たのに違いないと思ったことでしょう。律法によれば(申命記22:23,24)このような女性は、石打にされるのです。しかし深い悲しみと苦しみの中で、彼は人知れずマリアを実家に帰そうと思ったのです。律法よりも、彼女への思いやり哀れみ、愛を優先させたのです。姦淫の現場から引き出された女性に対する、イエスのふるまいを思わせる場面です。ヨセフは、そのような男性だったのです。

マリアの妊娠が神様による特別なことであったと知ると、彼はマリアと結婚式を挙げ、一緒に住むようになりました。しかし、男の子が生まれるまで、彼女を知ることはなかったのです。自分の欲望をきちんとコントロールしたのですね。男の子の誕生を待つ、その中で働かせたのが忍耐でした。ヨセフは旧約聖書にあるアブラハムやヨブの物語を知っていたことでしょう。彼らは忍耐の人でした。多くの苦しみ、試練の中で忍耐し、神様の恵みを受けたのでした。

生まれた男の子は、イエスと名付けられました。すべての人々を罪から救ってくださる方、という意味です。私の母親はお寺の長女として生まれましたが、聖書を読むようになって、イエスこそが罪からの救い主であることを知って、洗礼を受けました。63歳の時でした。人の罪業からの救い、死後のことを考えていたのですが、60を超える人生の中で、救いに預かることができました。忍耐があったからとも言えますね。日々の生活の中で忍耐しつつ、ヨセフのようになすべき務めを全うし、主のご降誕の日を迎えましょう。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。 へブル10:36

2019年12月 1日 (日)

神が人となる、ということ  ヨハネ1:1-5,14  2019.12.1

2019年は、元号が平成から令和に変わった時代でした。新天皇の即位の礼が行われ、その中心となる儀式は大嘗祭と呼ばれるものでした。それは、神と共に職死寝ることによって、神の霊を受ける儀式です。別の言い方をすれば、神になるといってもいいくらいのことであると思います。

クリスマス、主のご降誕物語は、神が人となってくださった出来事です。文字通り、私たちに寄り添ってくださった最初の出来事といってよいでしょう。ヨハネは主の降誕の物語を描くのではなく、その出来事の意味を、ちょっと難しい言い方で述べています。特に14節に、はっきりと示されています。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)イエス様の生涯をたどるとき、このみ言葉が語っている多くの出来事を見ることができます。

復活の主に出会って変えられたパウロは、二つの書簡で、次のように語っています。 

  キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ2:6-8)

   あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8:9)

神である方が、その高い位を捨てて降りてこられた、そして私たちと同じ姿を取ってくださったというのは、信じがたいことです。イエスが誕生するときの様子をルカの福音書で読むと、居場所がなくて飼い葉おけに寝かされた、とあります(ルカ2:7)。飼い葉おけは、イエスだけではなく、人の赤ちゃんを寝かせるようなところではないでしょう。そんなことをしたら、幼児虐待の罪で訴えられてしまいます。しかしこれが、主のご降誕物語の神秘なのです。居場所がないと感じている人の多い時代にあって、イエスが来てくださることにふさわしくないような罪びとの私たちのところに、同じ姿で来てくださったのです。そのことのゆえに私たちは救われ、神の子供とされる特権をいただいたのでした。

1テモテ2:5 

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。

 

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