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2020年3月 1日 (日)

自分をささげる 詩篇50:1-23 2020.3.1

教会歴では受難節に入り、本日は受難節第1日曜日となっています。このタイミングで、新型コロナウイルスの感染が拡大し、私たちの教会も含め、キリスト教会の礼拝や交わりの持ち方に大きな影響を与えています。ルカ21:11には「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」とあります。今回の件を終末のしるしの一つとしてとらえるなら、もう一度私たちの生活の営みや自らを省みて、主の再臨を待ち望む者として整えられる必要があることを示されます。受難節の過ごし方の一つに、断食と祈りがあります。そのようなことが、全人類にも必要な気がいたします。 

前置きが長くなりましたが、本日のみ言葉に心を留めてまいりましょう。アサフの詩、とあります。アサフは、礼拝において賛美(聖歌隊)の奉仕を担う人でした(1歴代6:39)。詩篇73-83の表題にアサフの名前があります。これらと違って、50篇は格言的、教訓的な内容となっています。

1-6節は、神の法廷の姿です。真光照天地のように、神の素晴らしい御性質がこの世界を照らしており、神の正義はことごとくあらわされているのです。人はその前に、審判を待つものとして立たされています。7-15節は、神の召しだされた者に語られる言葉です。詩篇49にあったように、人は神の言葉をしっかりと聞かなくてはなりません。8節や他の節に「いけにえ」とありますが、フランシスコ会訳聖書では、犠牲という漢字で「いけにえ」と読ませています。神はささげる人の心が真実であることを願っているのであり、犠牲の動物が欲しいわけではないのです。12,13節は面白い表現となっていますね。16-23節は、神の律法に逆らう悪者に対して言われる神の言葉です。最後の節では、感謝のいけにえを捧げる人こそ神を崇め、救われることを歌っています。

新約聖書には、イエスキリストこそ私たちの犠牲としてささげられた神の子であることが描かれています。サマリアの井戸で出会った女性に、真の礼拝は場所や時間によらないことを語りました(ヨハネ4:21-24)。パウロは、自らを捧げることこそが真の礼拝であることを示しました(ローマ12:1)。これは、キリストがとうとい犠牲として神に捧げられ、いま天において私たちをとりなしてくださっていることを示しています(へブル7:27)。自分を神に捧げて生きるとは、キリストに倣う生涯に他ならないのです。

へブル7:27イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

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