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2020年3月

2020年3月22日 (日)

イエスの歩まれた道、とは  マタイ27:27-34  2020.3.20

本日は、庄和会堂での説教ですが、来週日曜日の丘の上と同じですので、アップいたします。

 

イエスが十字架を背負わされて歩いた道は、ビアドロローサ、苦難の道(悲しみの道)と言われています。巡礼者が今日も歩くエルサレムにあるこのルートは、ピラトの官邸から聖墳墓教会まで、14のステーションがあります。現在のルートは中世に整備されたもので、実際にイエスが歩かされた道の一部は、現在知られている道より下にあるということで、イスラエルに住んでいるE姉が自分の足で歩いたレポートを送ってくれました。イエスが歩まれた道とはどのような道であったのか、心の巡礼としてたどってまいりましょう。

イエスの歩まれた道は、辱めの道、苦しみの道でした(27-31)。官邸に引き出されたイエスは、緋色のマントをかけられ、茨の冠をかぶせられ、兵士たちは王様の杓の代わりに持たせ葦の棒でイエスの頭を叩いたのでした。「パッション」という映画にイエスが受けた苦しみがリアルに描かれていましたが、一緒に行った姉妹は、とてもつらくて画面を見ていられなかったと言っていました。イザヤ書にあるように、人が顔を背けるほど蔑まれたのです(イザヤ53:3)。現在の日本では、クリスチャンであるというだけで蔑まれることはありません。むしろ、立派な人と思われるかもしれません。他人から蔑まされているとしたら、自分の愚かさから出ているかもしれませんね。しかし、私たちの国でも、かつて信仰のゆえに苦しみを受け、世間の人々から蔑まれたという歴史がありました。自分の苦しみとイエスの受けられた辱め、苦しみは、どこで重なるでしょうか。

イエスの歩まれた道は、孤独の道でした。霊的な生活とは、神と共に歩むことです。そこにいるあなたは、一人です。受難節の過ごし方の一つは、他の人といる所から身を離して、一人になり祈りとみ言葉に心を留めることです。イエスはいつも多くの人々に囲まれていましたが、ご自分ではさみしいところに身を置き、一人父なる神との交わりを求めていたのでした(マタイ14:13)。その時、本当の自分の姿を知り、神と共に歩みたいと思うようになることでしょう。

イエスの歩まれた道は、愛の道でした。イエスはただ辱めをじっと受け、一人になって何もしなかったのではありません。神の愛があらわされる行動を取っておられたのです。私達を最も大切なものとして認めてくださっている、それは私達への愛に他なりません。そして、私たちも愛のうちを歩むことは、神様のご命令でもあったのです。

  私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。   2ヨハネ1:6

2020年3月 1日 (日)

自分をささげる 詩篇50:1-23 2020.3.1

教会歴では受難節に入り、本日は受難節第1日曜日となっています。このタイミングで、新型コロナウイルスの感染が拡大し、私たちの教会も含め、キリスト教会の礼拝や交わりの持ち方に大きな影響を与えています。ルカ21:11には「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」とあります。今回の件を終末のしるしの一つとしてとらえるなら、もう一度私たちの生活の営みや自らを省みて、主の再臨を待ち望む者として整えられる必要があることを示されます。受難節の過ごし方の一つに、断食と祈りがあります。そのようなことが、全人類にも必要な気がいたします。 

前置きが長くなりましたが、本日のみ言葉に心を留めてまいりましょう。アサフの詩、とあります。アサフは、礼拝において賛美(聖歌隊)の奉仕を担う人でした(1歴代6:39)。詩篇73-83の表題にアサフの名前があります。これらと違って、50篇は格言的、教訓的な内容となっています。

1-6節は、神の法廷の姿です。真光照天地のように、神の素晴らしい御性質がこの世界を照らしており、神の正義はことごとくあらわされているのです。人はその前に、審判を待つものとして立たされています。7-15節は、神の召しだされた者に語られる言葉です。詩篇49にあったように、人は神の言葉をしっかりと聞かなくてはなりません。8節や他の節に「いけにえ」とありますが、フランシスコ会訳聖書では、犠牲という漢字で「いけにえ」と読ませています。神はささげる人の心が真実であることを願っているのであり、犠牲の動物が欲しいわけではないのです。12,13節は面白い表現となっていますね。16-23節は、神の律法に逆らう悪者に対して言われる神の言葉です。最後の節では、感謝のいけにえを捧げる人こそ神を崇め、救われることを歌っています。

新約聖書には、イエスキリストこそ私たちの犠牲としてささげられた神の子であることが描かれています。サマリアの井戸で出会った女性に、真の礼拝は場所や時間によらないことを語りました(ヨハネ4:21-24)。パウロは、自らを捧げることこそが真の礼拝であることを示しました(ローマ12:1)。これは、キリストがとうとい犠牲として神に捧げられ、いま天において私たちをとりなしてくださっていることを示しています(へブル7:27)。自分を神に捧げて生きるとは、キリストに倣う生涯に他ならないのです。

へブル7:27イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

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