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礼拝メッセージ

2018年2月11日 (日)

主の日への備え  オバデヤ1:11-16  2018.2.11

明日はボーイスカウト春日部10団が所属している東埼玉地区のプログラムで、BP祭が行われます。BPというのは、ボーイスカウト運動の創立者である、英国クリスチャンのベーデン・パウエルの頭文字です。ここからボーイスカウトのモットーである「備えよ常に」Be Preparedが作られています。あらゆることに対する備えを日々して過ごすことが、社会人として必要なことであるといつも教えられます。
 本日のテキストであるオバデヤ書は、旧約聖書の中で最も短い書です。著者であるオバデヤという意味は、主の礼拝者、または、主のしもべというものですが、彼の人物像、著作年代などは不明です。エドムの滅亡を預言し、そのような中でも、神の救いがあることを伝えています。
 エドム人の祖先は、イサクの子供である双子の兄エサウです。彼は空腹の故に、一杯の食物を長男の権利と引き換え、そのために長男としての祝福を父から受けられなかった、ある意味不遇な人物です。これらの物語は創世記2527章に記されています。また新約聖書には、「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」(へブル12:16)とあるように、その人物評価は低いものです。もっとも、このできごとには弟ヤコブの兄を押しのけようという悪だくみが働いていたのであり、あながち、エサウだけを責めるわけにはいきません。それはともかく、エドム人は昔からイスラエルに戦いを挑み、アラビア人によって圧迫されるとユダ王国にも侵攻していったのです。前13世紀から8世紀にかけて繁栄と発展を遂げていったのですが、やがて他民族に吸収され滅んでしまいます。


 なぜエドム人は、このようになってしまったのでしょうか。その理由の一つは、高慢です。3節に「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』と心のうちに言っている。」とあるとおりです。また、他国の侵略を受けて苦しんでいるユダ王国に対して、見て見ぬふりをしているどころか、かえって国の混乱に乗じて略奪を行った、その非情さの故です(11-14)。このようなこと忘れないユダヤ人の思いが、後世まで受け継がれていきました。「主よ。エルサレムの日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』と言ったエドムの子らを思い出してください。」(詩篇137:7)
 現代の私たちの社会でも、兄弟同士の争い、他の民族との争いがあります。たとえて言えば、殴ったほうは忘れても、殴られたほうはたといごめんなさいと言われても、その痛さや屈辱は決して忘れることができないのです。お互いに本当に謙遜にならなければ、真の和解は来ないでしょう。
 主の日とは、神の裁きの時を表します。その時には、人は神様の前に申し開きをしなくてなりません。今日という一日を、その備えとして真実に過ごしていかなくてはならないのです。

2018年2月 4日 (日)

主を求めて生きよ  アモス5:4-15  2018.2.4

   10年近く前、若くして自らの命を絶った女性の葬儀を執り行いました。司式者の私も、大変つらい時でした。その時の説教題は「生きよ」というものでした。テキストは、詩篇23篇でした。愛する娘を突然失った両親、家族へのメッセージです。自分が死にたいほどの悲しみの中に置かれても、娘の後を追って自分も死にたいというような状況でも、なお神様は「生きよ」と言ってくださっている、そのことを伝えたかったからでした。
 本日のテキストの著者アモスは、もともと羊を飼う者であり、イチジク桑の木を栽培していました。しかし神様の召しを受けて預言者として活動した人でした。神様の招きがあったら、避けてはいけません。舞台は北王国イスラエル、ヤロブアム王の時代でした。この時代、北王国は領土を広げ、繁栄していたようです。しかし富める者は、貧しい者を虐げ、神様の正義に生きているとは言えないような人たちでした。かつて、神がおられることを悟ったヤコブの滞在したベテル、交通の要所として栄えたベエル・シェバ、そしてサムエルやサウル王ともかかわりのあったギルガルは、偶像礼拝の街となっていたのです。繁栄を遂げている北王国ではありましたが、少しずつ王国崩壊の足音が聞こえてくるようなときだったのです。
 アモスの語ったメッセージは明確です。それは、主を求めて生きよ、というものでした。これは、4:12bの「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」に対応する言葉です。人々は、主のためではなく、自分のために生きていたのでした。しかしそれは滅びの道であり、行きつくところは、死だったのです。私たちの求めるべき主、神様は、オリオン座やスバル座のある、この天地を造られたお方です(8)。そして強い者を打ち砕き、不正を行う者を嫌われるお方です(9-12)。人の力で、正義を行うことはできません。義なる神様によって、人は正しい道を歩むことができるのです。 
 さて、現代の私たちの生きる姿はどうでしょうか。
 新約聖書には「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」ピリピ2:21とのみ言葉があります。これは、自分自身や自国のみの平和と繁栄を求める、今の時代を表すみ言葉であると思います。私たちの主は言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33
 神のおられるところ、そこが神の国です。どんな悲しみや苦しみがあっても、又栄えることができていても、主を求めるのでなければ、本当に「生きる」とは言えないのではないでしょうか。

2018年1月28日 (日)

神の裁きとあわれみ  ヨエル2:12-17  2018.1.28

 聖書の世界観を、あえて一言でいえば、世界の創造と裁き、と表されるかもしれません。創世記には、人間を含む世界の創造が記されています。この世界は神様の秩序があるゆえに、大変美しいものでした。しかし罪の故にそれは崩れ、不幸な世になってしまいました。陶器師が自分の作品を作り直すように、神様はこの世界を裁かれ、新しい創造をされました。黙示録に、その物語が記されており、それは未来の出来事です。
 古今東西、長い歴史の中で、人は自分たちの力を超えた存在によってこの世が裁かれる、何かしらの審判を受けると考えていたようです。キリスト教圏においては、それは聖書に基づいています。ミケランジェロの描いた「最後の審判」は、もっとも有名な作品と言えるでしょう。神様は裁きを下される怖い存在なのか、あるいは、今自分の身に降りかかっている禍はすべて神の裁きなのか、これは突き詰めると難しい問題で、回答を見出すのは困難なことであると思います。
 聖書は、創造者である神は、愛の方であるとのべています。しかし私たち人間は罪を犯してしまったがゆえに、そのことがなかなかわからないのです。1ヨハネ4:9「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」そのような私たちのためにイエスキリストが来られ、十字架にかかって私たちの代わりに神の罰を受け、ここに神様の愛が示されたのでした。そこに私たちは、感動するのです。
 預言者ヨエルが語ったのは、神は慈しみ深い方である、ということです。それゆえに、生きている時に私たちが心を変えて、神様に立ち返ることが必要なのです。神の裁きとあわれみは対立するものではなく、今ここにあるのです。神様に立ち返って今日という日を過ごすことが、神様のあわれみを知ることとなるのです。
 ローマ11:22見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

2018年1月21日 (日)

福音の新しい味わい  マルコ2:18-22  2017.1.21

 本日の説教は、1月7日の説教を参照してください。それとともに、さらに新しい気づきが与えられました。福音の味わいは、私たちが今いるところがどのような状況であったとして、新しく味わうことができるものです。悲しみや苦しみの中にも、神様がおられ、自分を導いてくださっていると知ることができるのです。

 み言葉と、参考資料を書いておきます。広辞苑の第7版が発行されました。私が学生時代に手にした第2版と比較すると、新しくなっていますね。下線の部分が入ったことは、福音の新しい味わいがあることを示しているように思います。

マタイ5:45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天
  の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも
  雨を降らせてくださるからです。

広辞苑による「福音」語釈
  第2版:①よろこばしいしらせ。②キリストによる人間の救いの道またはキリ
    ストの教え。
  第7版:①よろこばしいしらせ。②イエスキリストの説いた神の国と救いの教
    え。ゴスペル。

ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉
    の欲望を満足させるようなことはありません。

種をまく人(185099.7*80)
  バルビゾンに移り住んだミレーが初めて手掛けた大作。「種をまく人」という
  画題は、パリにいたころからミレーの興味をひいていた。画面を占めているの
  は、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく堂々とした姿
  である。なお、ミレーはこの作品とほぼ同じ構図、ほぼ同じ大きさの作品をも
  う一点描いており、ボストン美術館がその作品を所蔵している。(山梨県立美術館 
  のキャプションより)

 

2018年1月11日 (木)

神を愛し、愛される  ホセア6:1-6  2018.1.14

人は、どれほど神様を知ることができるのでしょうか。また、どのような神様を知ろうとしているのでしょうか。ひょっとすると、どこまでいっても、人は神様など十分に知ることはできないのかもしれません。他の人から見れば素晴らしい作品を作ったと思われるような人であっても、当人にとってはまだまだ十分ではない、満足のいくものではないと言われる境地に近いのではないかと思います。ところが神様のほうでは、ご自分のことをすべて明らかにしていると言っているのですから、なんとも面白いことです。ローマ1:19,20それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。禅語の、「明暦歴露堂々」に通じるみ言葉です。
 本日のテキストであるホセア書の著者ホセアは、北王国の滅亡を前にして神に仕えた人でした。不思議なのは、彼の妻と子供たちに対する言及です。彼の妻は姦淫という罪を犯したものであり、彼の子供の中には誰が父親かわからない者もいたようです。ホセアは、そのような罪深い妻でしたが、愛して受け入れ、私のもとから去ることがないようにと忠告を与えるような人でした。これは彼の実際生活であったとともに、神とこの時代の人々の関係を喩えたものでもあったのです。人は、自分の好みの人であったり、自分を愛してくれる人ならば、愛することができるでしょう。しかし、自分を裏切ったり、いわゆるタイプでない人を愛することができるでしょうか。霊的な姦淫である、偶像礼拝や神様を忘れて他の国や目に見える強大な国を頼りとしたイスラエルの人々は、滅んでもよい国だったのかもしれません。しかし神はそのような人々を哀れみ、熱い心を持っておられたのでした。
ホセア118わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。とあるとおりです。
 人はこの神様の哀れみを知って、神様に立ち返る、神を知ることに喜びを見出す必要があります。自分の達しえたところで、神を知る。それは知識や体験ではなく、砕かれた心です。その心をもって、神を礼拝することこそ、神に愛され、そして神を愛していることの証となるのです。


 ピリピ3:16  それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準とし    
    て、進むべきです。
 詩篇51:17神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなた
    は、それをさげすまれません。
 ローマ12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あ
    なたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
    聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な
    礼拝です。

2018年1月 7日 (日)

福音の新しい気づき  マルコ2:18-22  2018.1.7

 新年、主にあって、あけましておめでとうございます。本年も日曜日の礼拝説教をアップしてまいりますので、よろしくお願いいたします。

主イエスの降誕物語は、ご存知の通りです。30歳から、神の国の福音を伝える公生涯に入られました。賛美歌にあるように、イエスは食べる暇もないほど人々に仕えられ、貧しい人や弱い人達とともにいました。12人の弟子を召し、彼らを育成して全世界に送り出したのでした。しかし昔からの律法を厳格に守っている人たちからは、イエスはモーセの律法をないがしろにする者であるとの批判を受けました。しかし私たちの主は、律法を廃棄するためではなく、その成就のために来られたのです。

マタ 5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
22:36-40イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 
これらことによって、イエスは律法の中心である、神を愛し人を愛する生涯を送った方であることがわかりますね。

 本日のテキストで上げられている、三つのたとえ、断食、着物の継あて、革袋が語っていることは何でしょうか。一言でいえば、古いものと新しいものは一緒にできない、ということになると思います。新しい生き方は、もはや古いやり方では抑えることができない、それ自体で力を持っているのです。現代でも、○○改革といって、現代に合う生活様式に改めていく試みがあるとおりです。これは実は、福音の理解の仕方にも言えるのです。古いものはすべて駄目である、価値がないと言っているのではありません。その理解の仕方が相変わらず古いと、その価値を生かすことができないということなのです。福音は、イエス様を信じたら罪から救われて天国行きが約束されるので良い知らせである、という理解だけでは不十分です。
 過日、ミレーの「種まく人」の本物を美術館でまじかで観ることができました。種を蒔く人が、斜面の畑に右足を出して踏ん張り、右手を大きく後ろに引いて、まさにこれから種を蒔く場面でした。今まで感じたことのない力強さを、この絵から感じたのです。私にとっては、新しい気づきでした。
 福音の持つ素晴らしさを改めて知る時、
肉の支配ではない、聖霊に導かれた新しい日々が始まるのです。
 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

2017年12月31日 (日)

新しい旅の備え  マタイ2:13-23   2017.12.31

 今年2017年は、残すところ本日1日となりました。それぞれに、どのような年であったかを振り返り、何かしらの希望をもって新しい年を迎えようとされていると思います。
 光があれば、闇がある。陽があれば、陰もある。これは、天地創造の時からある神秘ではないかと、つくづく思わされます。
 この一年、良いことがあれば悪いこともあった、理不尽な訳の分からないこともあった、まさに私たちは、光と闇の中に置かれていると言っていいでしょう。
 主イエスの御降誕の物語には、光があります。世の光としてイエスはお生まれになったので、クリスマスは光の祭典ともいわれます。しかし、東方の博士たちが来た時の物語は、闇のようなお話です。ヘロデ王による、幼児虐殺が描かれているのです。考えようによっては、イエスが生まれたからこのようなひどいことが起きたのだ、クリスマスなどというのはけしからん、という話にもなりかねない出来事です。話を拡げて、これだから宗教は危ないのだ、ということになっていくでしょう。ここで詳しく書くことはできませんが、日本において秀吉、家康の時代に禁教令や鎖国に踏み切ったのには、キリスト教が入ってくるとこの国は戦乱に巻き込まれ他国によって無理やり支配されてしまう、ということがその理由の一つだと言われているのです。
 「キリスト教徒ではないからクリスマスはばか騒ぎができる」という趣旨の本を年末に読みました。外国のものを宗教抜きに取り入れ、ひいてはキリスト教がなかなか根付かいない日本人の精神構造が良く書かれていると思いました。たしかに、イエス誕生という光の中で、幼子が殺されるという闇のような出来事が起きました。しかしカトリック教会の暦では、1228日を「幼子の殉教者の日」としてこれを覚えているのです。また、あるキリスト教劇の台本にはこの出来事を取り上げる劇があり、そのタイトルは「最初の殉教者」となっています。
 大切なのは、この闇のような出来事、陰のことを忘れないことです。痛みとともに、そのことを受け止め、その中にある神様のみ心を悟ることです。私たちの気持ちを荒立たせるような出来事やニュースが、国の内外に多く聞かれるようになりました。ついつい、慌ててしまいがちです。このような時こそ主の言葉に聞いて、静かな心を取り戻して、新しい年、新しい旅の備えをしてまいりたいと思います。


  
1ペテロ4:74:7
 
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさ  
 い。

2017年12月24日 (日)

ベツレヘムに生まれる  ルカ2:1-20  2017.12.24

主イエスの御降誕、おめでとうございます。

 

本日の説教題は「エルサレムではなく、ベツレヘムに生まれる」としたかったのですが、少々長くなり、説教題看板に入りきらないのではないかということで、掲題のようになりました。
 イエスは救い主として、また、系図によればダビデ王の子孫として生まれました。そしてダビデの町に生まれる、ということでした。旧約聖書では、ダビデの町と言えばイスラエルの都エルサレムのことです。ルカ2:4を原語の順番で並べると、「上った、ヨセフは、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのダビデの町に、そこはベツレヘムとよばれる」という風になるでしょうか。この個所の朗読を聞いていた人、あるいは読んでいたユダヤ人は、ちょっと「あれっ?」と思ったのではないでしょうか。つまり、ダビデの町は立派なエルムであって、あんな小さな町ではない、と思っていたのです。しかし実際羊飼いたちは、小さな町ベツレヘムへと急ぎました。新約聖書では、ダビデの生まれた町ベツレヘムがダビデの町と言われています。しかもイエスが寝かされていたのは、家畜小屋の飼い葉桶です。ダビデ王の子孫どころか、人が寝かせられるようなところではないでしょう。しかしそのようなところに、救い主はお生まれになったのです。クリスマスの神秘の一つは、このコントラストにあります。日本語でいえば、詫びでありさびの世界です。
 先週、ELC英会話クラスのクリスマス会をいたしました。その時、ある生徒さんが話してくれました。彼がイタリアに旅をしたとき、木製のネイティビティーをたくさん見たそうです。その中に、飼い葉おけがあり、その作品に惹かれたというのです。そこには、羊飼いも博士たちも動物もいません、飼い葉おけの中にはイエス様すらいないのです。飼い葉桶だけであったことが、良かったというのです。この話を聞いたもう一人の受講生が、これは悔い改め、リペンタンスですね、と言いました。私たちの心はいろいろな強欲でいっぱいになっている、でも悔い改めて空っぽになったところに、イエスが来てくださる、これがクリスマスのメッセージではないか、ということでした。まさにその通りですね。
 イエスは都でもなく、立派なベッドでもなく、小さな田舎の町に生まれ、汚い飼い葉桶に寝かされていた。貧しさの中にこそ、大きな富があることの象徴ですね。 

2コリント8:9
 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 

2017年12月17日 (日)

神に望みを置く  マタイ1:18-25 2017.12.17

イエスキリストの誕生は次のようであった、とあるが、ヨセフの物語が書かれている。冒頭に、マリアの妊娠は、聖霊によることであることが分かったとある。どのようにして、ヨセフがそのことを知ったのか、ちょっとわからない。この書き方は、ヨセフの物語の全体をまとめて、表現しているように思われる。あるいは、マリアが自分の身に起こったことを告げたとも考えられるのである。
 ヨセフは初め、これを受け入れられず、マリアを気遣って離縁しようとした。彼は正しい人であったということだから、当時の律法を守ることと、マリアの身を案じることの板挟みになってしまったのだろう。
 天使のお告げを聞いたヨセフは、聖霊によってマリアは身ごもったということを理解し、一緒に住むようになった。結婚式を挙げてともに住むようになったのである。そして、住民登録のためにガリラヤからベツレヘムへの旅をはじめ、馬小屋でイエスが誕生したのであった。
 ここには、彼の決断とその行いによって、その信仰をみることができる。「信仰は行いによって全うされる」(ヤコブ2:22)とあるとおりである。彼はどのような決断をし、身を処したのであろうか。
 ユダヤの社会において、婚約は結婚と同じ意味。しかし、結婚式を挙げるまでは一緒に住むことはなく、その日までそれぞれのところで暮らしていた。当時の律法では、婚約中の女性が不義を働けば石打の刑に処せられた。いわば、姦淫の現場でとらえられた女性のように、人々から石を投げつけられてしまうのだ。そんなことはとてもできないと考えたヨセフは、この話は最初からなかったことにしようとして、ひそかに離縁しようとしたのであった。しかし、主の使い、天使が夢の中に現れ、彼は神様の言葉を聞いた。そこで、このたびのことは神様から出たことであると確信した。それゆえ彼はマリアを迎え、正式に結婚したのである。離縁しなかったのである。
 私たちの生活にあてはめてみよう。肉の欲求ではなく、聖霊によって導かれる生活があるのだ。神望みを置いているのなら、必ず神のみ心がなるのである。


 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

水野源三 

一度も高らかに

クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない

一度も声を出して

クリスマスを祝うあいさつをしたことがない

一度もカードに

メリークリスマスと書いたことがない

だけどだけど

雪と風がたたく部屋で

心の中で歌い

自分自身にあいさつをし

まぶたのうらに書き

救いの御子の降誕を

御神に感謝し喜び祝う

 

2017年12月10日 (日)

御子を待つ備え  マルコ1:1-8  2017.12.10

 本日のテキストであるマルコの福音書は、イエスキリストの誕生の物語を描いていません。同じ福音書でも、マタイとルカには、降誕の物語が記されています。イエスの活動をテンポよく描き、その生涯を読者によくわからせようとしているように思います。
 13節には、預言書が引用されています。マラキ3:1とイザヤ40:3からの引用です。このヨハネ誕生の物語は、ルカ1:580に詳しく書かれています。長い間子供の生まれなかった祭司ザカリヤ夫妻に、男の子が生まれ、その誕生とイエスの母マリヤのかかわりが記されているのです。
 4-8節には、このヨハネの働きが書かれています。彼は荒野に住み、野人のような生活をしていたようです。彼は、ヨルダン川で、人々に悔い改めのバプテスマを授けていたのです。主イエスも、このヨハネからバプテスマを受けました。その様子は911に描かれており、他の福音書にも記されていることです。ヨハネは、イエスの先立ち、露払いとして現れたのでした。それは、悔い改めによって心を空っぽにし、救い主である主イエスを受け入れる備えをさせるためだったのです。待降節は基本的に救い主の誕生を心待ちにする喜びの日々ですが、悔い改めも含まれている期間と言えるでしょう。
 イエスの誕生に欠かすことのできない人物と言えば、それは言うまでもなくマリヤです。エリサベツが妊娠6か月を過ぎたころ、マリヤ立って、彼女のもとに向かいます。たがいにあいさつを交わしあとに言ったマリヤの言葉は、マグニフィカト、マリヤの賛歌と言われています。ルカ1:4655に記されています。ここでは、マリヤは普通の女性で、救い主の到来を待ち望んでいる者であることが告白されています。天地を造られた神様は、卑しい女性であるとして自らを低くするマリヤに目を留められたのです。ここに、彼女の信仰がよくあらわされています。
 来年度は、礼拝と交わりに集中する、という伝道牧会方針が示されています。神様を礼拝するという縦の線と、お互いに兄弟姉妹として共有する横の線、合わせれば十字架になるこの二つを大切にしようということです。その姿勢の一つが、マリヤにあります。キリストがおられる、私たちを見守ってくださっている、と意識することです。2017年の待降節、マリヤの持っていた御子を待つ備えを、私たちの備えとさせていただきたいのです。

 

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