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礼拝メッセージ

2020年5月17日 (日)

主よ、新しくしてください 詩篇51:10-17 2020.5.17 オンライン礼拝

大凧マラソンが中止になったGW、カミュの「ペスト」を読みました。高校時代に読んだような読まなかったような、記憶があいまいな本でしたが、この時期ずいぶん出版されたようです。1947年に発表された小説で、ペストが発生してロックダウンされたアルジェリアの町で起きる出来事は、いま日本や世界で起きていることと見事に重なる、予言的な小説でもあったのだと改めて感じました。

さて本日の聖書個所は、紀元前1000年ころのイスラエル2代目の王、ダビデの犯した過ちが背景にある詩篇です。出来事の詳細は、2サムエル1112章に書かれています。ある日の夕方、ダビデ王は人妻を王宮に招き入れ、彼女が妊娠したとわかるとその夫を戦闘の最前線に送り込んで死に至らしめます。いわば姦淫と殺人の罪を犯したわけです。そのことをいさめた預言者ナタンの声に耳を傾け、神の前に罪を悔い改め、新しい人になって神と人に仕えた、というのがその出来事のあらすじです。

ダビデは、今日のイスラエル国家の礎を築いたもっとも重要な人物であり、ダビデ家の紋章が国旗に描かれているほどです。大きな過ちを犯した人でしたが、その罪を認めて砕かれ、新しくされたというところがポイントです。私たちは自分の罪や過ちを指摘された時、どのような反応をするでしょうか。

悔い改めというのは、単に自分の過ちを反省したり、懺悔することとは違います。その意味は方向転換です。ダビデは、自分は神の前に罪を犯したということを認めたのです。このことは重要です。なるほど、ダビデのような姦淫や殺人などということはしていないでしょう。しかしあなたの心は、神様に向いていますか?今回の新型コロナウイルス感染を巡って分かったのは、人間(あるいは国家)の自己中心性、リスク0を求めるあまり、自分を正しいとして他人を攻撃し、社会や交わりが分断されるということではなかったでしょうか。人の罪は生まれ落ちた時から、すべての人について回っているのです(ローマ323)。神を締め出し、自分中心になっていることこそ、罪の姿です。

しかし神は、そんな私たちを憐み、新しく造り変えてくださるお方なのです。10節にある「造り」という言葉は、創世記11にある神が天地を「創造した」ということばと同じです。「ペスト」の後半に、医師のルイーが自分の身をぽっかりと海に浮かべ、夜空を見上げる場面があります。この小説の中で、唯一ホッとする場面だと思いました。それは憐れみ深い神の懐に抱かれ、安心しきっているイメージに重なります。 どんなつらいことをも包んでくださる神の愛の中で、人は心砕かれて新しくされていくのです。 2コリント517

2020年4月 5日 (日)

キリストの死と復活 マタイ21:6-11  2020.4.5

教会歴では、本日は棕櫚の聖日、枝の主日と言われる日です。主イエスの過ごされた最後の1週間の最初の日で、子ロバに乗ったイエスが、都エルサレムに入城されたことを記念する日です。教派によってこの期間の教会歴の呼び名は少しずつ違いますが、主の苦しみを覚え、復活祭に備える期間であることに変わりはないでしょう。ちなみに、新改訳聖書では第3版までは「しゅろの木の枝」となっていましたが2017では「なつめ椰子の枝」(ヨハネ12:13)となっています。本日は、民衆が手に持ち、そしてイエスの通られる道に敷いたこの「木の枝」を黙想の手掛かりとしてまいりたいと思います。

シュロの枝は、勝利の象徴でした。戦争に勝利して凱旋する兵士たちを、シュロの枝を打ち振って出迎えたといわれます。NHK朝ドラのモデルと言われる古関裕而の作曲で、加賀大介作詞のあの夏の甲子園で流れる入場曲「栄冠は君に輝く」の2番に「みどり濃きシュロの葉かざす」という一節があります。勝利を目指してプレーする高校球児たちに送る応援歌としてふさわしい一節であると思います。エルサレムに入られるイエスを見て人々は「この人は…預言者イエスだ」と叫びました。まさに主イエスは、神の言葉を語る者として人々を罪の縄目から解放し、死の恐怖にも勝利した方だったのです。私達が打ちのめされそうになった時、勝利者であるイエスに目を上げましょう。

昨年アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師の遺稿となったペシャワール会報No142(2019.12.4発行、凶弾に倒れた日)に、緑の大地計画で植えた100万本の木のうち、60万本は柳であり、イエスがエルサレムに入城された出来事を取り上げ、柳はキリストの復活を象徴する木であるとの記述がありました。イエスは十字架にかけられ、死んで墓に葬られました。しかしそれで終わりではありませんでした。3日目によみがえり、イエスを信じる者には、永遠の命が与えられることを宣言してくださったのです。

新コロが蔓延している今の時代にあって、罪ある人間の醜い様子を見ます。あっという間に、死に至ってしまう方もあります。このような先の見えない苦しみの中でも、主イエスの復活を信じる者は、やがて自分も新しい体によみがえるという希望を持って歩むことができるのです。丘の上教会の塀際に植えてある柳を見上げると、教会の尖塔が目に入ります。十字架にかけられた主は復活し、この小さい自分を生かしてくださっていることを実感できるのです。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2:20a



2020年2月23日 (日)

陰府の手から奪い返す方 詩篇49:1-20 2020.2.23

本日の詩篇は、死がテーマとなっています。説教の準備をする中で、お交わりのあった二人の方の訃報に接し、厳粛な思いにさせられました。

この詩篇は、どちらかというと箴言のような内容です。まさに知恵の書であり、格言、人生に対するアドバイスといっても良いかもしれません。この場合の知恵は、「を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:7)とあるように、まず神を知ることから始まります。また1節に「これを聞け」とあるように、すべての人はこの知恵の言葉、聖書にしっかりと聞かくなくてはなりません。良い話だったから○○さんに聞かせてあげよう、というのではなく、まず自分自身が聞く姿勢を持つことが大切なのです。

禅語に「真光照天地」という言葉があります。これは神羅万象すべての物や営みに、神の光が隅々まで行き渡っており、人はその真の光を見ることができるという意味です。詩篇19の冒頭にある「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。」というみ言葉に置き換えることができるのです。造られた世界には、神の知恵が満ちているのです。

人間が生まれてから死に至るまでのこと、特に、人の死を考えるときに、この詩篇49の語っていることは、改めて注釈する必要のないほど、自明なことを語っています。真の光が照っているのです。自分に悪意を抱く者を恐れること(5)、人の命は尊いこと(7)、富や栄誉を持っていても死を迎えること(1218)などは、全くその通りですね。親しい兄弟であっても、よみの国から人を贖うことはできないのです。それは、フィクションの世界で描かれる物語です。

本詩篇の中心のみ言葉は、15節です。よみに下る者であっても、そこにとらわれ続けられることはないのです。よみから奪い返してくださる方がおられる、というのです。「しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる。」これができるのは、イエスキリストに他なりません。私たちの罪をその身に負い、神の罰を受けて十字架にかかり、死なれました。それは、わたしたちをよみの中から救い出す、奪い返すためだったのです。これは、人は死んで終わりではなく、文字通り、死からのよみがえりがあることを語っています。

このイエスキリストを遣わし、世界を造られた方に心を留めることこそ、私たちが第1にしなくてはならないことなのです。

伝道12:1

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

2020年2月 2日 (日)

神、共にいます  2020.2.2 詩篇46:1-11

先月の中旬から、新型コロナウイルスの蔓延、国会の開催、そして暖冬の中の天候不順、などなど様々なことが起きています。ネズミ年にふさわしい()、目まぐるしくいろいろなことが起きた最初の月でした。そしてこれらのことは、私たちの先行きに不安を与える者ばかりです。

 大相撲初場所の話題は、何といっても幕尻の徳勝龍が優勝したことでしょう。インタビューの中で、恩師の伊藤監督が急逝されたことに触れ「監督は見てくれてたんじゃなく、一緒に土俵にいて戦っていてくれたような、そんな気がします。」という涙のコメントが、印象に残りました。

本日の聖書個所は、ずばり、神がどんな時にも私たちと共にいてくれる、戦ってくれているということを告白したみ言葉です。宗教改革者ルターは、この詩篇をもとに「神はわがやぐら」という讃美歌を作りました(讃美歌267、新聖歌280)

1-3節は、神に造られた世界、人が自然と呼ぶ世界が立ち騒いでいる姿です。地震、津波、干ばつ、砂漠化、大規模森林火災など、挙げればきりがありません。故郷の姿も、人間の力によって全く変わってきたと感じる方もあることでしょう。「セラ」は詩篇に現れる間投詞です。美しい自然が失われている姿を見て、ふっとため息をついている詩人の姿を想像してしまいます。4-7は、人間の作った世界も立ち騒いでいる姿が描かれています。先だってのニュースで、世界終末時計は「あと100秒」になったとありました。時計の針に残された時間は、過去最短を示したというのです。イランとアメリカの関係悪化、北朝鮮の核疑惑、気候の温暖化を食い止める各国の対応が遅れている、というのがその理由で、地球の破滅はもう目の前に来ていることを警告しています。8-11は、このような危機的な中で、私たちが取るべき心の在り方、態度を示しています。何よりもこの世界の王は人間ではなく、世界を造られた神様であることを知らなくてはなりません。そのために必要なのは、静まって、神の前に出ることです。神様のとのかかわりを見つめなおし、もう一度人としての在り方を取り戻し、神様の前に膝まずくという態度です。必要なのは、軍備ではありません。9節は、イザヤ2:4「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」のみ言葉を思い起こさせます。軍事力を持つことが戦争の抑止力になる、と言われます。しかしすべての人々がお互いに信頼し合い、一斉に武器を放棄し、荒野を開拓したら、そこに川ができ、緑がよみがえるのです。神が共におられる、God be with you! この言葉こそ、平和をもたらす基になることでしょう。

 

2020年1月12日 (日)

天地を造られた方に目を上げよ 詩篇121:1-8 2020.1.12

2020年、あけましておめでとうございます。こんなあいさつも吹き飛ぶほど、年末から年始にかけて、日本や世界を不安に陥れるような出来事が起きています。皆様は、どのような思いで新しい年を迎えられたでしょうか?

本日のみ言葉は、そんな新しい年に読み、思いを巡らすのには良いみ言葉です。最もなじみのある詩篇の一つともいえるでしょう。表題に「都のぼりの歌」とあるように、巡礼者がゴールである都エルサレムに近づき、ふっと足元から目を上げてシオンの丘を見上げた時の心境が歌われていると思います。単なるハイキングや山登りではなく、霊的宗教的な歩み、まさに聖なる地を目指す巡礼者の思いがこの詩篇に歌われています。

人は確かに、山に向かって目を上げます。日本の景色でいえば、まず新年はご来光を拝もうということで山頂を目指す、特に富士山は日本人であれば理屈抜きに見上げたい山であることでしょう。しかしこの詩篇の作者は、山そのものからさらに目を上げよ、この山だけではなく世界にあるあらゆるものを造られた方を見上げよ、と歌っているのです。世に多くの注解書がありますが、まずあなたの口でこのみ言葉を読んでみてください。声に出してもいいし、心の中に読んでも構いません。あなたの思いが、このみ言葉の通りになっていくとき、神の守りが至る所にあることを知るようになるでしょう。

121篇には「守る」という言葉が6回使われています。主なる神は私たちの足をよろけさせず、うとうとと寝てしまうこともないお方です。家族やヘルパーさんにしっかりと支えられているようなイメージです。それは個人の守りにとどまらず、「イスラエルを守る方」とあるように、国家社会の守りへと広がっていきます。

しかし時に、なぜ助けてくださらなかったのかと、愚痴の一つも言いたくなるようなこともありますね。ヨブはまさに、そのような人生を強いられた人でした。次から次へと、災いが降りかかってきたのです。妻からも、神を捨ててしまえと言われる始末です。それでもなお、彼は創造主である神から目を離すことはありませんでした。

昨日、82歳の姉妹の告別式を行いました。母の死に遭遇するとは思わず外国から帰国した最愛の娘の腕の中で、彼女の歌う讃美歌を聞きながら静かに召されたとのことです。神様が二人を引き合わせてくれたのではないでしょうか。

新しい年、私たちを驚かせるようなことが起きてもそのことに目を捕らわれるのではなく、造り主である神にこそ目を上げる日々を送らせていただきましょう。

2019年10月 6日 (日)

泉と光に生かされる 詩篇36:1-12 2019.10.6

人間を含め、地上のすべての生き物は、水と光がなければ生きていけない、成長できないと言えるでしょう。本詩篇は、そのことを自然界(神に造られた世界)の営みの美しさを引用しながら描いている詩であると言えます。

1-4節は、罪が擬人化されています。罪=罪人という理解で良いと思います。ここに描かれていることは、詩篇14:1の「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」を思い起こさせます。

5-9節には、この世界を造られた神の御性質が描かれています。一言でいうならば、自然界は神様の恵みや慈しみで満ちているということでしょう。6節は、新改訳聖書第3版では「あなたは人や獣を栄えさせてくださいます」と訳されていたものが、2017では他のいくつかの日本語訳のように「あなたは人や獣を救ってくださいます」と訳されています。ヘブル語聖書の意味を汲んだ訳であり、神の豊かな守りは人間だけにとどまらず、すべての被造物に及ぶことを表す良い訳であると思います。アッシジのフランシスによる「太陽の賛歌」を思い起こさせます。9節は、泉()と光が私たちを生かすものであり、それは今日的に言えば、主イエスキリストであることを知るのです。あのサマリヤの女(ヨハネ4:7)は、汲んでも尽きない水であるイエスとの出会いを経験しました。盲人バルテマイ(マルコ10:46)は、肉眼が開かれただけでなく、真の光であるイエスを知ったのでした。

10-12は詩人の祈りです。泉は、湧き出ているからこそ生ける水となっています。どんなにおいしい水でも、そのままにしておけばやがて腐ってしまい、悪臭を放つようになるでしょう。どんなに遠くまで照らす光源があっても、それを覆ってしまったり低い所に置いたのでは、用を足さないでしょう。そのように、泉()は絶えず流れ出、光(ともしび)は次々に伝えられて行かなければならないのです。来年は東京オリンピック、パラリンピックが開催されます。競技に先立って、聖火が次々に受け継がれていく聖火リレーが行われることでしょう。同じように、私たちがいただいた永遠の命の水であり光であるイエスを証しすることは、私たちをも生かすものとなるのです。

 

2019年8月18日 (日)

主なる神を味わう 詩篇34:1-22  2019.8.18

 きびしい残暑が続いています。子供のころ、母親の実家で飲んだ清水のあの冷たさと、のどを通る時のおいしさを思い起こしてしまいます。

 表題から推測すると、ダビデがサウロに追われて逃げているとき、祭司アヒメレクのもとに身を寄せて、頭がおかしくなったこと(3版では「気が違ったかのように」)が本詩篇の背景にあると思われます。その物語は1サムエル記21章にありますが、こちらでは、アヒメレクから逃れてガテの王ラキシュの下で頭がおかしくなったようにふるまったとあるので、表題と内容は関連がないという説もあるようです。しかし、ダビデの逃避行という苦しみの中でこの詩篇がうたわれたと理解するほうが、リアルに読むことができると思います。

 本日のみ言葉によれば、私たちは神様の素晴らしさを味わうことができるというのです。神についての概念や聖書の教えを頭だけではなく、体全体を使って味わいなさいと命じられています。苦しみの中でも、いやそのような時こそ主なる神様の素晴らしさを味わえというのです。素晴らしさと訳されている言葉は、多くの英語聖書ではgoodとなっていました。そういえば、英語クラスで良く歌う“God is so good!”の日本語の歌詞は「主は素晴らしい~」となっていました。他の日本語聖書を見ると、慈しみ深い、恵み深い、優しい方などの訳がありました。この夏、自分の家を離れて海や山に出かけられた方もあるでしょう。そのような場所で、神様の素晴らしさを体感できたのではないでしょうか。あるいは、ひと夏の経験や行った先での出会いを通して、神様の素晴らしさを感じたということもあるでしょう。

 私たちは、そのようなことと共に、書かれた神の言葉である聖書にふれることによって、神様の素晴らしさを深く味わうことができます。詩篇119:103 「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とある通りです。しかし時にみ言葉は、私たちに鋭く切り込んでくることもあるのです。へブル4:12,13 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 この夏、私の神学校だけでなく、高校の大先輩の牧師先生との出会いがありました。その先生は、毎朝み言葉を揮毫され、ブログにアップされ、ひと月ごとにそれをまとめておられるのです。神を味わい、み言葉を味わうことの幸いを改めて教えてくださいました。今週、どのような神様のすばらしさを味わうことができるか、楽しみですね。

 

 



2019年7月 7日 (日)

神をあがめ、感謝する 詩篇30:1-12  2019.7.7

「逆転人生」というテレビ番組があります。どん底の人生を歩んでいた人が、何かのきっかけで素晴らしい人生を送るようになったというようなことで、元やくざが牧師となったという方も紹介されていました。以前、私どもの教会にお呼びし、お話をしてくださった方でした。最近では、東京2020のチケット抽選がもう一度行われるそうで、抽選に漏れてしまった人には、ありがたい企画だと思います。敗者復活戦ともいわれているようです。

詩篇30篇は、まさに逆転人生、敗者復活ともいえるようなもので、重い病に侵されていた人が癒された喜びをうたったものです。1節には主なる神をあがめている様子が、歌われています。これは、み使いのお告げを受けた時のマリアと同じ告白といえるでしょう(ルカ1:46)。そして結びの12節では、感謝の言葉が記されています。これもまた、パウロの告白「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」に通じるものです。

多くの場合、病が癒されれば医師や病院に感謝をするでしょう。困難な時に助けてくれた家族や友人に、ありがとうということもあります。これらすべてのことが、主なる神様のおかげなのです。悲しみが喜びに変えられる、死の恐怖から解放されて、生きる希望を持つようになる、詩篇30にはその素晴らしさがうたわれています。

しかし時には、病が癒されなかったり、思うような回復とはならないこともあります。相変わらず困難な中に置かれ、四面楚歌になって途方に暮れるということもあるでしょう。そのようになってもなお、私たちは神をあがめ、感謝することができるでしょうか。

この詩編の表題には「家をささげる」とあります。ここでは神殿を奉献する、という意味でしょう。個人的なことと思われる病の癒しが、公な出来事に、適応されているのです。ささげるとはヘブル語のハナクで、ハナカ(奉献)のもとになった言葉です。イスラエルの歴史の中で、神殿が異教徒にけがされた時がありました。しかしユダヤ人はこの神殿を奪還し、燭台を再び掲げることができたのです。そのことを記念したハナカの祭りは、光の祭典として今日も祝われています。闇から光への逆転があったのです。長い苦しみの中でも、彼らは神を忘れることはなかったのです。

苦しみの中でもなお、神の真実さを信じて祈る。神をあがめ、その方に感謝をささげる、そこに逆転の人生が開けていくのです。

 

2019年6月23日 (日)

礼拝者の姿勢 詩篇24:1-10  2019.6.23

 世界中のキリスト者は、日曜日に集い、礼拝をささげています。そのスタイルは違っていても、神を求める求道者であり、礼拝者であることに変わりはないでしょう。本篇は、その礼拝者の姿勢の基本を語っている詩篇と言えるでしょう。

 1節2節は、礼拝の対象である神は、天地万物を造られた方であることを明らかにしています。これはキリスト者の物事を考える根本にあることです。ドイツの首相であるアンゲラ・メルケル氏は、政教分離の国にあって、ご自分の行動の原理にはこの信仰があることを多く語っておられます(「私の信仰」新教出版社、2018)。天地を造られた神の存在は、この世界に秩序があり、美しいものであり、それぞれに違いがあっても尊いものであることを示しています。そこから他の国との関わり、エネルギー問題、難民問題への取り組みなどが導かれてくるのでしょう。

 3節から6節には、どのような人が真の礼拝者として神の宮、神殿に詣でることができるかということを示しています。主の山、聖なる所とは、聖書の時代では、今日のエルサレム、そしてそこに建てられた神殿のことでしょう。現代にあてはめれば、礼拝の場所と言えるでしょう。そこに集う礼拝者は、きよくなければならないのです。この「きよい」ということは、道徳的にも立派な人で、汚れを知らないということではありません。主イエスが山の上で語られたように、心を空しくしてただ神に思いを向け、子供様な純粋な思いをもって神により頼む心です。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ4:8)

 7-10は、神殿の門や戸()が擬人化されています。神殿に入ってくるのは、まず神様ご自身なのです。その方は余りにも栄光に富み偉大なので、門や扉は高く上げられなければ、どこかひっかかって入れなくなってしまうというのです。面白い表現だと思います。あるいは、神が入られるので、神殿の扉が大きく開かれるというイメージでしょうか。日本文化の中では、観音開きのようになるということでしょう。栄光と力に富んだ神に続いて、礼拝者が神殿に詣でることができるのです。

 いま私たちは、それぞれのところに建てられた教会に集い、礼拝をささげています。そこは礼拝堂ではなく、家や集会所のようなところである場合もあります。大切なのは、イエスキリストはご自分がなだめの供え物となって、先に入られたので、私たちも礼拝の場に行くことができるということです(へブル4:16)

 先導者であるイエスから目を離さないこと、そしてイエスの歩まれた道をたどること、これが、礼拝者の姿勢なのです。

 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。へブル4:16

 

2019年6月 2日 (日)

なおも神を待ち望む 詩篇22:1-21 2019.6.2

表題に「暁の雌鹿」の調べに合わせて、とあります。黎明会メンバーにはふさわしい表題ですね。朝毎に歌われる詩篇だったようですが、これが実際どのようなメロディーであったのかは、わからないようです。日本の雌鹿の泣く声も聞いたことのない自分には、なかなか想像するのが難しいところです。しかし尺八の曲で「鹿の遠音」というのを聞いたことがあります。二頭の鹿(あるいはカップル)がお互いに遠くから鳴き交わす楽曲なのですが、そのイメージが浮かんできてしまいます。

 本篇は、イエスの十字架の処刑の場面に引用されている聖句が、1節、7,8節、11節、18節、に記されています。イエスの受難を預言している詩篇ともいえるでしょう。また本篇には、雌鹿のほかに、雄牛(12)、犬(16、20)、獅子(1321)、野牛(21)という四つの動物が出てきます。雌鹿は雅歌によれば愛する人のことですから、救い主であるイエスの喩となっている動物です。ほかの四つの動物は、これに対抗するイスラエルの指導者、イエスをあざける人々、そしてサタンを喩えている動物であると言えます。

 また6節には「私は虫けらです」と言って、作者自身を人々から嫌われ、踏みつけられ潰される小さな虫にたとえています。出エジプト記には、この言葉が腐ったマナにわく虫として描かれています(出エ16:20)。面白いことに、22:6に使われている虫は、ココス・イリシスという名前の小さな虫で、潰すと緋色の染料の元になるのだそうです。イザヤ1:18にある「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と同じ言葉です。この染料で染めた色はなかなか落ちないということですから、緋色は頑固な罪を表す喩えです。しかし神は、罪に染まった私たちを清めてくださる方であることが、強調されています。十字架で流されたキリストの血が、私たちの罪をきよめてくださることを、知ることができるのです。

 ダビデは、人間の罪故の苦しみ、あるいは病気や不条理な苦しみの中でも、神に訴え、祈り、呼びかけています。しかし何も答えてくれない、まさに沈黙しているような神様への訴えを、やめることはないのです。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスは、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と祈り、苦しみの中ですべてを神様に委ねて息を引き取られたのです。このイエスを、父なる神はよみがえらせ、イエスを信じる者に命を与えてくださいました。神を求め、神の救いを待ち望む者は、見捨てられることはないのです。

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