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礼拝メッセージ

2019年8月18日 (日)

主なる神を味わう 詩篇34:1-22  2019.8.18

 きびしい残暑が続いています。子供のころ、母親の実家で飲んだ清水のあの冷たさと、のどを通る時のおいしさを思い起こしてしまいます。

 表題から推測すると、ダビデがサウロに追われて逃げているとき、祭司アヒメレクのもとに身を寄せて、頭がおかしくなったこと(3版では「気が違ったかのように」)が本詩篇の背景にあると思われます。その物語は1サムエル記21章にありますが、こちらでは、アヒメレクから逃れてガテの王ラキシュの下で頭がおかしくなったようにふるまったとあるので、表題と内容は関連がないという説もあるようです。しかし、ダビデの逃避行という苦しみの中でこの詩篇がうたわれたと理解するほうが、リアルに読むことができると思います。

 本日のみ言葉によれば、私たちは神様の素晴らしさを味わうことができるというのです。神についての概念や聖書の教えを頭だけではなく、体全体を使って味わいなさいと命じられています。苦しみの中でも、いやそのような時こそ主なる神様の素晴らしさを味わえというのです。素晴らしさと訳されている言葉は、多くの英語聖書ではgoodとなっていました。そういえば、英語クラスで良く歌う“God is so good!”の日本語の歌詞は「主は素晴らしい~」となっていました。他の日本語聖書を見ると、慈しみ深い、恵み深い、優しい方などの訳がありました。この夏、自分の家を離れて海や山に出かけられた方もあるでしょう。そのような場所で、神様の素晴らしさを体感できたのではないでしょうか。あるいは、ひと夏の経験や行った先での出会いを通して、神様の素晴らしさを感じたということもあるでしょう。

 私たちは、そのようなことと共に、書かれた神の言葉である聖書にふれることによって、神様の素晴らしさを深く味わうことができます。詩篇119:103 「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」とある通りです。しかし時にみ言葉は、私たちに鋭く切り込んでくることもあるのです。へブル4:12,13 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 この夏、私の神学校だけでなく、高校の大先輩の牧師先生との出会いがありました。その先生は、毎朝み言葉を揮毫され、ブログにアップされ、ひと月ごとにそれをまとめておられるのです。神を味わい、み言葉を味わうことの幸いを改めて教えてくださいました。今週、どのような神様のすばらしさを味わうことができるか、楽しみですね。

 

 



2019年7月 7日 (日)

神をあがめ、感謝する 詩篇30:1-12  2019.7.7

「逆転人生」というテレビ番組があります。どん底の人生を歩んでいた人が、何かのきっかけで素晴らしい人生を送るようになったというようなことで、元やくざが牧師となったという方も紹介されていました。以前、私どもの教会にお呼びし、お話をしてくださった方でした。最近では、東京2020のチケット抽選がもう一度行われるそうで、抽選に漏れてしまった人には、ありがたい企画だと思います。敗者復活戦ともいわれているようです。

詩篇30篇は、まさに逆転人生、敗者復活ともいえるようなもので、重い病に侵されていた人が癒された喜びをうたったものです。1節には主なる神をあがめている様子が、歌われています。これは、み使いのお告げを受けた時のマリアと同じ告白といえるでしょう(ルカ1:46)。そして結びの12節では、感謝の言葉が記されています。これもまた、パウロの告白「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」に通じるものです。

多くの場合、病が癒されれば医師や病院に感謝をするでしょう。困難な時に助けてくれた家族や友人に、ありがとうということもあります。これらすべてのことが、主なる神様のおかげなのです。悲しみが喜びに変えられる、死の恐怖から解放されて、生きる希望を持つようになる、詩篇30にはその素晴らしさがうたわれています。

しかし時には、病が癒されなかったり、思うような回復とはならないこともあります。相変わらず困難な中に置かれ、四面楚歌になって途方に暮れるということもあるでしょう。そのようになってもなお、私たちは神をあがめ、感謝することができるでしょうか。

この詩編の表題には「家をささげる」とあります。ここでは神殿を奉献する、という意味でしょう。個人的なことと思われる病の癒しが、公な出来事に、適応されているのです。ささげるとはヘブル語のハナクで、ハナカ(奉献)のもとになった言葉です。イスラエルの歴史の中で、神殿が異教徒にけがされた時がありました。しかしユダヤ人はこの神殿を奪還し、燭台を再び掲げることができたのです。そのことを記念したハナカの祭りは、光の祭典として今日も祝われています。闇から光への逆転があったのです。長い苦しみの中でも、彼らは神を忘れることはなかったのです。

苦しみの中でもなお、神の真実さを信じて祈る。神をあがめ、その方に感謝をささげる、そこに逆転の人生が開けていくのです。

 

2019年6月23日 (日)

礼拝者の姿勢 詩篇24:1-10  2019.6.23

 世界中のキリスト者は、日曜日に集い、礼拝をささげています。そのスタイルは違っていても、神を求める求道者であり、礼拝者であることに変わりはないでしょう。本篇は、その礼拝者の姿勢の基本を語っている詩篇と言えるでしょう。

 1節2節は、礼拝の対象である神は、天地万物を造られた方であることを明らかにしています。これはキリスト者の物事を考える根本にあることです。ドイツの首相であるアンゲラ・メルケル氏は、政教分離の国にあって、ご自分の行動の原理にはこの信仰があることを多く語っておられます(「私の信仰」新教出版社、2018)。天地を造られた神の存在は、この世界に秩序があり、美しいものであり、それぞれに違いがあっても尊いものであることを示しています。そこから他の国との関わり、エネルギー問題、難民問題への取り組みなどが導かれてくるのでしょう。

 3節から6節には、どのような人が真の礼拝者として神の宮、神殿に詣でることができるかということを示しています。主の山、聖なる所とは、聖書の時代では、今日のエルサレム、そしてそこに建てられた神殿のことでしょう。現代にあてはめれば、礼拝の場所と言えるでしょう。そこに集う礼拝者は、きよくなければならないのです。この「きよい」ということは、道徳的にも立派な人で、汚れを知らないということではありません。主イエスが山の上で語られたように、心を空しくしてただ神に思いを向け、子供様な純粋な思いをもって神により頼む心です。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです(マタイ4:8)

 7-10は、神殿の門や戸()が擬人化されています。神殿に入ってくるのは、まず神様ご自身なのです。その方は余りにも栄光に富み偉大なので、門や扉は高く上げられなければ、どこかひっかかって入れなくなってしまうというのです。面白い表現だと思います。あるいは、神が入られるので、神殿の扉が大きく開かれるというイメージでしょうか。日本文化の中では、観音開きのようになるということでしょう。栄光と力に富んだ神に続いて、礼拝者が神殿に詣でることができるのです。

 いま私たちは、それぞれのところに建てられた教会に集い、礼拝をささげています。そこは礼拝堂ではなく、家や集会所のようなところである場合もあります。大切なのは、イエスキリストはご自分がなだめの供え物となって、先に入られたので、私たちも礼拝の場に行くことができるということです(へブル4:16)

 先導者であるイエスから目を離さないこと、そしてイエスの歩まれた道をたどること、これが、礼拝者の姿勢なのです。

 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。へブル4:16

 

2019年6月 2日 (日)

なおも神を待ち望む 詩篇22:1-21 2019.6.2

表題に「暁の雌鹿」の調べに合わせて、とあります。黎明会メンバーにはふさわしい表題ですね。朝毎に歌われる詩篇だったようですが、これが実際どのようなメロディーであったのかは、わからないようです。日本の雌鹿の泣く声も聞いたことのない自分には、なかなか想像するのが難しいところです。しかし尺八の曲で「鹿の遠音」というのを聞いたことがあります。二頭の鹿(あるいはカップル)がお互いに遠くから鳴き交わす楽曲なのですが、そのイメージが浮かんできてしまいます。

 本篇は、イエスの十字架の処刑の場面に引用されている聖句が、1節、7,8節、11節、18節、に記されています。イエスの受難を預言している詩篇ともいえるでしょう。また本篇には、雌鹿のほかに、雄牛(12)、犬(16、20)、獅子(1321)、野牛(21)という四つの動物が出てきます。雌鹿は雅歌によれば愛する人のことですから、救い主であるイエスの喩となっている動物です。ほかの四つの動物は、これに対抗するイスラエルの指導者、イエスをあざける人々、そしてサタンを喩えている動物であると言えます。

 また6節には「私は虫けらです」と言って、作者自身を人々から嫌われ、踏みつけられ潰される小さな虫にたとえています。出エジプト記には、この言葉が腐ったマナにわく虫として描かれています(出エ16:20)。面白いことに、22:6に使われている虫は、ココス・イリシスという名前の小さな虫で、潰すと緋色の染料の元になるのだそうです。イザヤ1:18にある「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と同じ言葉です。この染料で染めた色はなかなか落ちないということですから、緋色は頑固な罪を表す喩えです。しかし神は、罪に染まった私たちを清めてくださる方であることが、強調されています。十字架で流されたキリストの血が、私たちの罪をきよめてくださることを、知ることができるのです。

 ダビデは、人間の罪故の苦しみ、あるいは病気や不条理な苦しみの中でも、神に訴え、祈り、呼びかけています。しかし何も答えてくれない、まさに沈黙しているような神様への訴えを、やめることはないのです。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスは、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と祈り、苦しみの中ですべてを神様に委ねて息を引き取られたのです。このイエスを、父なる神はよみがえらせ、イエスを信じる者に命を与えてくださいました。神を求め、神の救いを待ち望む者は、見捨てられることはないのです。

2019年5月 5日 (日)

神の栄光を表す 詩篇19:1-14  2019.5.5

祝日、国民の休日などが続き、今年のGWは10連休ですね。これは改元に伴なうことで、このような日取りになることはこの先にはまず起こらないでしょう。ある方にとっては10連勤というようなことで、今までにない忙しい日々を過ごしている方もおられることでしょう。

 私が学生だった頃は、グループサウンズやフォークソングがはやった時期でした。その中にサイモンとガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」という曲がありました。友人と一緒に、映画も観に行きました。今でもこの歌詞はいろいろに解釈されている歌です。タイトルを直訳すれば「静寂の音」ですが、静かなのにどうして音が聞こえるのか、ということになります。しかしこれは芭蕉の「静かさや~」という句に通じるタイトルではないかと思うのです。そして本日のテキストである詩篇19は、それらの本歌ではないかと思わせる詩篇です。

 たしかに人間の耳には、音声として神の言葉は聞こえてこないでしょう。しかし、たとえば、山や川や海などのような圧倒的な大自然の中に立った時、人の存在を越えた何かすごい存在、英語で言えば Something Great!としかいいようない何かを感じることがあるでしょう。

日本人は、そのように感じるあらゆるものを神、あるいは霊として祭り、畏敬の念を表してきました。聖書はしかし、わたしたちが自然界と呼んでいる物は神によって造られたものである、被造物であるというのです。4-6は、太陽に関する描写ですが、これもまた神によって造られたもの、いわば作品の一つなのです。「勇士のようにその走路を走る」とは、規則正しい宇宙の営みを表しています。日本人は、太陽を神としてきました。平成天皇から、令和天皇への代替わりの儀式の中心にあるのは、天照大神にそのことをまず報告し、そして歴代の天皇の霊(御霊)、日本のすべての神々(八百万の神)に報告するものです。ここに、聖書と日本人の神観に大きな違いが見られます。世界を造られた方がおられることを知る時、人は真に謙遜にさせられ、自らの傲慢を悔い改め、他の人だけでなくこの世界の生き物とも仲良く暮らそうと思うことができるのです。

神によって造られた世界が、ご自身の栄光を表しているのなら、イエスキリストによって新しく創られたキリスト者も又、神の栄光を表しているのです。それは、日常茶飯事の中でなされる人の営みです。飲み食いの中に、神の栄光を表しているかどうか、改めて点検させられますね。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。1コリント10:31

2019年4月 7日 (日)

神が生きておられることの証し  詩篇18:46-50 2019.4.7

先週の1日は、新元号の発表日でした。昭和から平成になった時とは大違いで、まるで令和フィーバーともいえる日だったのではないでしょうか。ただでもらった号外や記念品が高額で売買されたり、改元に付け込んだオレオレ詐欺が横行する、まったく悲しくなるような出来事も続いています。元号に恥じ入るような行動ではないかと思うのです。しかし、わたしたちの歴史は、元号によって区切られるものではありません。まことの神であるイエスキリストのみ手の中にあって、営まれていることを、謹んで悟らなければならないと思います。

 本日のテキストの背景は、表題にあるように、ダビデが敵、特にサウロによって追われていたときの経験があります。同じような詩が、2列王記22章に描かれています。命の危険を感じながら逃亡生活を送るということは、なんと大変なことであったかと思います。この詩篇はしかし、そんなダビデを生かしてくださる神を賛美し、神が生きておられることを証している詩篇です。

46節が主題のみ言葉であると言えます。この言葉は、旧約聖書では、誓って何かを言う時の定型句のように使われたり、大事なことを言う前に襟を正されるような感覚で使われている言葉です。神が生きておられるということは、私たちに命が与えられている、どのような境遇に置かれていても、生かされるということです。イエスキリストの十字架と復活を知っている私たちは、たとい死んでも生きるというイエスの言葉を、受け止めることができます。どのような苦難や、死に至るような病の中にあっても、神は生かしてくださると言えるのです。それは、イエスを信じる者は、天国行きの約束をいただいただけでなく、それまでの生涯を主の復活の証人として生きることができるからです。イエスキリストを信じているということは、日常茶飯事の出来事は神が生きておられることの証しそのものであるということです。

新聖歌257番は「キリストは生きておられる」という讃美歌です。ビル&グロリア・ゲイサー夫妻によって作られました。英語の原詩と日本語訳はかなり違っています。3節のヒントになったのは、グロリアさんのお父様が残していた死についての言葉でした。「そして、いつの日か 私は河を渡るだろう。私は人生の最後の戦いに苦痛とともに立ち向かう。そして、そのとき、死は勝利にのまれる。私は栄光の輝きを見て、主が生きておられるのを知るだろう。」この言葉こそ、神は生きておられることの証しです。私たちも、神が生きておられること、復活のキリストの証人として、この週も過ごしていきたいものです。

 

 

 

 

 

2019年3月31日 (日)

悔い改めなければ  ルカ13:1-9  2019.3.31

受難節、第4主日となりました。本日のテキストは、思いがけない災難に遭った人たちのことが描かれている箇所です。20113月のあの大震災、津波、そして原発事故の後に書かれたこの個所の注解、あるいは引用した文章を読むと、それ以前の物と内容が違っているように感じます。ほかの人と言うより、私もこの個所の読み方、理解の仕方が変わったと思っております。何よりも、聖書に書かれていることは他人ごとではなく、まず自分自身に向けられている言葉であるという理解です。これは当たり前のことなのですが、実際にはそこに描かれているイエス様の物語をどれだけ真剣に自分のこととして捉えているか、探られるところです。

イエスが大勢の人々に話をされているまさにその最中に、ある人達がやってきました。そして、ガリラヤ人がその礼拝中に危害を加えられ、死傷者が出ている、というようなことを告げたのです。犠牲になった人たちは、神様の罰が当たった罪深い人達ではなかったのか、と思った人がいたのでしょう。イエスはすかさず言われました。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。そして、シロアムの塔が倒れ、下敷きなってしまった人たちの出来事を引き合いに出して、再び同じことを言われたのです。1-5節までのキーワードは、「悔い改めなければ」ということです。

悔い改めとは、方向を変えること、神様のとのかかわりでいえば、神に立ち帰ることです。続いて語られたぶどう園に植えたいちじくの木のたとえ話は、その悔い改めの実が結ばれなければ、切倒されてしまう(滅ぼされてしまう)ということです。口先だけではない真の悔い改めには、目に見えるもの、実際生活の変化が必ずあるということです。イエスの苦難は、ご自分の罪の故ではなかったので、悔い改める必要はありません。その苦難が、自分のためであったことを知る時、私たちは悔い改め、神に立ち帰ることができるのです。

奥様を天に送って20年以上、丘の上会堂に集っている方が、当教会の受洗者名簿に登録されました。50年前に洗礼を受けておられましたが、洗礼を受けた日は復活祭ではなく受難節の日曜日でした。その理由は、キリストと苦難を共にした弟子のように、受難前から信仰の道に入ろうと決心したからだと言われるのです。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。ローマ11:22

2019年3月 3日 (日)

試みを受けた主  ルカ4:1-13  2019.3.3

西方教会の教会歴によれば、今週水曜日は「灰の水曜日」と言われ、これから主イエスの受けられた苦しみを覚える受難節に入ります。主の復活を祝う復活祭まで、自らの生活を吟味し、悔い改めてその実を結ぶことができれば、喜びにあふれた復活祭を迎えることができるでしょう。あなたにとって、主イエスはどのようなお方でしょうか?どのようなイメージを持っておられるでしょうか。この時期は、試みを受けた方であることに思いを向けたいと思います。

本日のテキストは、共観福音書に描かれている、荒野の誘惑の場面です。昨年のイスラエルツアーで、ヨルダン国に面したヨルダン川岸辺に下り立ちました。ヨハネ1:28「このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。」とあるベタニア、今日ではカスエルヤフッドと言われているところです。すぐ近くには荒野が広がっており、ガリラヤ湖の南、ヨルダン川となっていくヤルデニットよりも聖書の雰囲気を伝えている場所のように思いました。洗礼を受けたイエスは、ユダの荒野で試みを受けました。水や食べ物を絶って、まったく一人になるという40日間でした。空腹の極みの時に、悪魔が三つの問いをもってイエスを試みたという場面です。有名な「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、この場面で語られたものでした。三つの試みを通して、イエスはみ言葉により頼み、神様を信頼していくことこそ、誘惑に打ち勝つ道であることを示されました。

イエスの生涯は、試みの連続であったと言えるでしょう。人としての苦しみ悲しみ、弟子や家族に見放されるという心の苦しみ、時の宗教指導者の手に渡され厳しく責められるという精神的肉体的苦しみ、そして最後は犯罪人として十字架につけられ、人々のあざけりを受けるという全人格否定の苦しみ、それは筆舌に尽くしがたいものであったはずです。

しかしイエスは、このような試み、苦しみをスルーすることなく、真正面から受け止め、味わわれたのです。へブル書にはこのようなイエスの姿が描かれています。  
 2:18
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」 
 4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
これらのみ言葉は、私たちの主イエスが私たちの苦しみや弱さに共感し、大祭司として父なる神にとりなしてくださっていることを示しています。このお方が、私たちの人生の同伴者なのです。この方とともに、これから始まる受難節を歩んでまいりましょう。

2019年2月24日 (日)

見捨てることのない神  詩篇16:1-11  2019.2.24

私たちの生活において、人に見捨てられるほど悲しい経験はないと思います。また、理不尽な仕打ちを受けたり、思わぬ事故に遭遇するようなことがあれば、運に見放された、あるいは、神に見捨てられたと感じることでしょう。

詩篇16篇の作者は、まず「神よ、私をお守りください。私はあなたに身を避けています。」と語ります。赤ちゃんがお母さんの腕の中に抱かれ、守られているようなイメージです。「どんなことがあっても、お母ちゃんは僕のことを守ってくれる!」という信頼感があるのです。ところが、私たちの周りでは、親が子供を虐待し、命までも奪ってしまうというニュースが毎日のように聞こえてくるのです。親が我が子を見捨ててしまうのです。私の感覚では、ありえないことです。

2節から6節は、さらに続けて神様に信頼する作者の言葉が続いています。測り縄を使って人の領分が測られ、そして守られるように、神様が守ってくださるのです。

7節から11節は、神を賛美する言葉です。神のくださる幸いは、9節にあるように、喜びと楽しみと安らぎです。10節と11節は、死という神に見捨てられるように思う出来事に遭遇したとしても、なお神は生かしてくださることを歌っています。そしてこのみ言葉は、新約聖書にも引用されているのです。ペテロは、あのペンテコステの日に、帝国内の各地から祭りのために上ってきた同胞に、イエスキリストの物語を語りました。そしてこのみ言葉を引用して、イエスの復活を語ったのです。その結果、人々は心を刺され、悔い改めてイエスを信じバプテスマを受けたのです。3000人もの人々がキリストを信じ、エルサレムに教会が生まれたのでした。アンティオキアに旅をしたパウロも又、このみ言葉を引用し、イエスの復活を語りました。この時、ユダヤ人は彼に反対してパウロをののしりましたが、異邦人たちは喜んで彼の言葉に耳を傾け、イエスを信じる人たちが多く起こされたのでした。ペテロやパウロの説教は諸刃の剣のように、信じる者とこれを拒絶する者に分けてしまいました。しかし二人とも、詩篇16を引用して、ナザレ人イエスは死んだけれどもよみがえり、これこそが福音のメッセージの確信であることを語ったのでした。

どんなことが起ころうとも私たちを見捨てることのないお方が、今日もいてくださるのです。

へブル12:2 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

2019年2月 3日 (日)

神の臨在  詩篇15:1-5  2019.2.3

教会に集うようになって、同じような年代の青年達と軽井沢でキャンプを行いました。開会の礼拝で歌われたのが、新聖歌316でした。その歌詞の第3節に「いかにきよき交わりぞや、妨ぐるものなし、昼も夜も臨在あり、依り頼むわれらに」とありました。この賛美に感動し、語られた説教(青年担当執事のIさんが、山室軍平の生涯からお話ししてくれた)によって、神様がともにいてくださること、その神様に自分をおまかせして歩むことがいかに大切なことか、ということを教えられた時となりました。

詩篇15篇は、14篇とは違って、神がイスラエルの民とともにいてくださること(神の臨在)をはっきりと語り、その証しとしてきよい生活があることを示しています。2節から5節には、極めて実際的な生活の勧めが記されています。「主に捨てられたものを蔑み」と4節には厳しいことが書かれていますが、心底神様に従うことの大切さを逆説的に言った言葉であると理解できます。

1節の言わんとしていることは、「幕屋」と「聖なる山」にこそ神がおられるということです。幕屋とは、イスラエルの民の行く先々で建てたテントであり、神を礼拝する場所でした。モーセによるエジプト脱出から始まる荒野を放浪している時代から始まり、カナンの地にイスラエルの部族が定着するまでの期間にありました。聖なる山とはシオンのことで、エルサレムに建てられた神殿と言ってよいでしょう。ダビデが準備をし、その子ソロモンが神殿の建築を完成させ、奏献の祈りが1列王記8章に書かれています。

幕屋も神殿も、神の臨在の象徴でした。実際には人の手で作った建物の中に神を入れることなどできないことは、ソロモンの認識しているところでした。創造主である神様は、時間や空間に制限されるお方ではありません。どこにでもおられ、神を信じる者とともにいてくださる方なのです。

イエスキリストの救いの御業によって、信者は神の宮とされています。

  1コリント6:1920.あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あ 

 なたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや

 自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたので

 す。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

幕屋や神殿は今はありませんが、日常茶飯事にあっても神様がおられることを忘れてはならないのです。神の臨在こそが、私たちをどんな境遇にあっても支えてくださる力となるからです。

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