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礼拝メッセージ

2018年10月14日 (日)

主の定め  詩篇2:1-12  2018.10.14

樹木希林さんが茶の湯の先生をしている映画、「日日是好日」の上映が、13日から始まりました。記念の試写会は、希林さんの追悼茶会になったそうです。この映画のもとは、森下典子さんの同名のエッセイです。この本の解説を噺家の柳家小三治さんが書いておられるのですが、そこに「つぶやきでなく、声に出して読んでください」とありました。実際私も声にだしてこの本を読んでみると、黙読とは違う感動、発見がありました。ぐっとこみあげてくるものがあったのです。

聖書はもともと、それを読む人によって聞く神様の言葉です。詩篇などは、読むだけでなく、歌うものです。黙読する、静かに読むことももちろん良いのですが、声に出して読むことによって、そのような読み方では感じなかったことを、きっと感じることができるでしょう。ご自分の読み方で、時にはゆっくりと、ときには表題にあることを基に情景をイメージしながら読んでいくと、新しい気づきがあると思います。

詩篇第2篇は、参考書を見ると、王の詩篇と言われる部分に属するとありました。この地上の国々や地域には、それぞれを治めている王や為政者がいます。しかし眞の王は、天地を造られた神様ご自身であり、イエスは人としてこの地上に来られた、私たちの王様です。

  1-3節は、この地上の営みが描写されています。21世紀になって、なお国々の争いがあり、自分たちの利益しか考えず、世界征服を企んでいるかのような出来事が起きているのです。
  そのような人間の営みを、1篇に書かれているように吹き飛ばされていく籾殻のように笑っている神様の姿が、4-6に書かれています。しかしその神様の笑いは、争っている人たちを哀れみ、救いの御子を遣わそうという深い思いやりから出ているのです。
  7-9にあるみ言葉は、イエスキリストの誕生と宣教によって実現したのです。紀元前の時代には、まだそのことは預言して語られており、このみ言葉を聞いた人は、私たちのようにキリストの誕生を知ることはありませんでした。しかし預言者の言葉によって、まことの王である神様を知っていったことでしょう。
いつの時代であれ、このことを知った者たちの取るべき態度が、最後の10-12に描かれています。自らをわきまえ、王である神様の前にひざまずき、滅びの道ではなく、命の道に歩むことが主の御心です。「御子に口づけする」とは、あまりなじまない表現ですが、主イエスキリストに対する愛の表現です。この方の愛を受け、私もお仕えいたします、という感じでしょうか。
  主の定めは、滅びの道を行くのではなく、そこから立ち返るために御子イエスキリストを遣わしてくださった、救いの物語なのです。

2018年9月30日 (日)

流れのほとりに  詩篇1:1-6  2018.9.30

詩人の谷川俊太郎さんが、書いておられます。「そう、詩はわからなくても、たべもののようにあじわうことができるんだ。詩を読むと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。」(詩ってなんだろう ちくま文庫) 

本日から、詩篇を説教テキストとして取り上げたいと思っております。新約聖書からイエス様の物語も扱いたいので、毎週というわけではありませんが。詩篇は全部で150篇ありますから、すべてを取り上げると何年かかるやら?どうして詩篇を取り上げるのかと問われれば、「詩篇を読みたくなったから、語りたくなったから」としか言えないような気がいたします。詩人は、書きたくなったから詩を書くのだそうです。それと同じかもしれません。

この世には、優れた注解書や、詩篇をテキストとした説教集が出版されています。実際に説教を聞かれた方もあるでしょう。そのような中ですが、改めて一篇一篇のみ言葉を味わってまいりましょう。

詩篇第1篇には表題がありません。全詩篇の始まりとして、書かれたものと思われます。新改訳聖書第3版と新改訳聖書2017を比べると、3節の翻訳に違いがあります。第3版では「水路のそばに植わった木のようだ」とありますが、2017では「流れのほとりに植えられた木」となっています。他の日本語訳聖書でも、このようになっています。聖書の舞台となっている地方の多くは、荒野です。岩が転がり、茶色で乾燥した地なのです。しかしそこに水の流れがある、小さな川があり、命がはぐくまれている。そんな流れのほとりに木が植えられ、季節が巡って来れば実がなり、葉は枯れないというのです。いわゆる、常緑樹ですね。代表的なのは、ナツメヤシの木でしょうか。

これは人生を表す表現であり、旧約聖書にある族長の一人ヨセフは、「実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。」(創世記49:22)と言われています。水がそばにあることによって、木は生きるのです。私たちに人間も、水がなければ生きていくことができません。そして神様の前に正しく生きるには、霊の水が必要なのです。それはイエス様と結びついていること、イエス様をいただくこと、水を飲むようにしてイエス様のみ言葉を味わうことです。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38) 

時に、心が渇いてしまうことがあります。何をしても満たされないこともあるでしょう。そのような時こそ、詩篇の言葉を口ずさんでみましょう。心だけでなく、あなたのからだも喜ぶことでしょう。

2018年9月 1日 (土)

一つに合うまで  ヨハネ17:20-26  2018.9.2

人は、祈ることができ、また祈ってもらえる存在です。大祭司でもあるイエス様のとりなしの祈りを、今朝は心に留めさせていただきましょう。
 教会の週報に「一週一祷」という欄があり、教会の各委員会の祈りの課題が載っています。どの教会の週報でも、このような祈りの課題が書かれています。
 キリスト者の務めの一つは、とりなしの祈りであると思います。万民祭司を掲げるプロテスタント教会においては、特にこのことは大切です。祈るのをやめるのは罪であるとさえ、聖書に書かれているのです(1サムエル12:23)。ハンス・ビュルキ師は、「主の弟子となるための交わり」という本の中で、真の一致のためのとりなしの祈りの重要性を説いています。その中に「互いのために祈るとは、自分を他の人の立場に移し替え、自分をその人とひとつにし、その人とともに、またその人のために自分を神にささげることです」と書いておられます。
 イエス様の祈りは、まさにとりなしの祈りとして、自分を弟子たちの立場に置き、彼らのために祈られた祈りでした。まずイエスは、弟子たちがこの世にいながらこの世のものではないことを明言します。世界史の中で今日まで、否今日も、キリスト者や教会が迫害を受けてきました。潜伏キリシタンの教会群が世界遺産に登録されましたが、これはキリスト者がこの世にいながらこの世から嫌わた者であることを思い起こす遺産である、と思います。そのような彼らを守ってくださるようにと、母親にも似た思いをもってイエスがとりなしていてくださるのです。
 そして彼らが一つなることを、願っておられるです。16章にある説教の後半では、弟子たちが散らされるとの預言がありました。散らされた弟子たち、今日でいえば、世界中にいるキリスト者が一つになるように、というのが主の願いなのです。しかしその一つになるということは、組織や活動を一つにするというのではありません。三位一体なる神様が、調和を持った交わりを持ちながら一つであるように、教会も一つになりなさい、ということです。霊の一致がまず最初にあるのです。互いの違いをみとめ、受けれつつ、同じキリスト者としてそれぞれの営みをする、それが神の国に生きる者の務めです。
 やがて天国において、私たちは一つに合わされ、完全な一致に入れられるのです。

1ペテロ3:8 
最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

2018年8月26日 (日)

勇気を出しなさい  ヨハネ16:29-33  2018.8.26

本日の聖書個所は、弟子たちと過ごした晩餐の席で語られた、訣別の説教ともいえる部分の最後となります。17章は大祭司としての祈りです。文字通り、主の祈りといえるでしょう。
 ここで語られていることは、これから自分は十字架に渡され一人になり、弟子たちは散らされていく、それでもなお恐れたり心配しないで勇気を出しなさい、ということです。いろいろな喩をもってご自分のことや、神の国について語ってこられたイエスは、ここに至って、はっきりとお話になったのです。そういわれて弟子たちは、初めてイエスを信じたのではありません。30節にある「わかりました」という言葉の意味は、イエスが神の子救い主であることを、弟子たちは腑に落とすことができた、ということでしょう。
 イエスの言葉の中で、「散らされて」という言葉があります。イエスが処刑されると、弟子たちの多くは家に帰ったようです。ガリラヤの漁師だったペテロたちは、又網を打つものとなっていましたが、湖畔で復活の主と出会います。使徒の働きを見ると、初代教会のクリスチャンたちは、迫害によって散らされていきました。しかしその散らされたところで、み言葉を宣べ伝えていたのです。
 
使徒8:14  サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
 
1世紀の後半、ユダヤ人の一部は、ローマ帝国からの独立を訴えてエルサレムを占拠し、それが戦争となります(ユダヤ戦争)。結末は、70年にエルサレムがローマ軍によって占領され、神殿は破壊され、73年にマサダの砦が陥落して、ローマの勝利に終わります。以後、ユダヤ人は全世界に散らされていきました。20世紀になっても、なお迫害を受けていた民族です。彼らは、散らされたところで共同体を作り、シナゴグ(会堂)を建てて礼拝を守り続けています。
 キリスト者も散らされましたが、それぞれのところで共同体(教会)を立ち上げ、み言葉を宣べ伝え、今日に至っています。しかし教会は、それぞれの地域、国々の文化や習慣の中で、信仰を育んでいったのです。ですから、一言でキリスト教会といっても、実に多様です。福音は、一民族に限るものではなく、世界に広がるいのちを最初から持っていたからです。様々な困難の中でも、イエスによって与えられ「勇気を出しなさい」という言葉に励まされてきたのです。

2018年8月 5日 (日)

イエスを信じる者の姿  ヨハネ15:11-17  2018.8.5

祈り会の学びのテキストとして、ハンス・ビュルキ師の「主の弟子となるための交わり」という本を使っています。ビュルキ師はすでに召された方ですが、キリスト者の霊性に関して、大きな影響を与えた方であったと思います。この本の中に「信仰の働き-能動的か、受動的か」という章がありました。神様を信じている人の信仰の方向は、二者択一、あるいはどちらかを排除するのではなく、その両面があるというのが、師の言おうとされたことであると思います。
 たしかに、私がイエス様を信じた時のことを思い返すと、その両面があったと思います。高校3年生の終わりころ、ある日曜日の礼拝後に、通っていた教会の牧師の個人伝道によって、「はい、イエスを信じます」と言ったのはわたしの決断でした。しかしのちに思い返すと、その日に限って「今日、イエス様を信じたい」という思いが強くなっていたのです。また聖餐式では、礼拝に集っている人の中でまだイエス様を信じていない人が信じることができるように、との祈りがささげられていたのです。これらのことを思うと、神様が私を信仰に導いてくださったのであって、自分はそれを知らずに受け入れただけなのだ、ということもできるのです。
 本日のテキストの16節は、まさにこのことを裏付けるみ言葉であり、イエスを信じる者が生涯貫く信仰の方向、信仰生活を送る姿勢にもなっているのです。神様がしてくださることがある、そして人もなすべきことがある、そのすべては実を結ぶためなのです。ブドウが実をつけるのは、房が枝に結びつき、枝は幹に結びついているからだ、というのは誰でも知っています。もちろん、しっかりと根を張っていなければならないことは、いうまでもありません。これは、私たちがイエスに結びついていることの必要を語る、イラストレーションです。文脈から言えば、この実とは、イエス様がおっしゃった互いに愛し合うという生活、愛という実のことでしょう。
 「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」という言葉あるそうです。短いスパンで人を見るのではなく、長い目で見なさいということを教えている言葉でもあるそうです。丘の上にある柚子の木もまさにその通りで、ずっと実をつけなかったのですが、今年は青い実をたくさんつけているのです!うれしくなりました。枝を落としたり、根を切ったりしましたが、そのまま置いておきました。イエス様に結ばれていること、それが信仰者の姿であり、実を結ぶ人生となるのです。

ルカ1:38
  マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたの
  おことばどおり、この身になりますように。」

2018年7月29日 (日)

神の愛の証人  ヨハネ13:31-35  2018.7.29

先週は、丘の上会堂で、共に礼拝をささげることができました。大変暑い日だったので、次回は涼しい時のほうが良いかもしれませんね。礼拝後の交わりタイム、イスラエル在住の姉妹によるスライド上映が、好評でした。
 本日の説教は、先週の流れを受けています。キリスト者にとって、神様が愛の方である、お互いに愛し合うということは当たり前のことで、あまり関心を払っていないかもしれません。あるいは食傷気味で、「また神の愛ですか~?」といった感じで取られる方もあるかもしれませんね。
 主イエスは、私たちの生活のあらゆる面で、神の栄光を表すようにと言われました。そして、神を愛すること、自分を大切にするように隣人を愛することが、律法の中心であるともいわれたのです。その主イエスは、語ったことを実際に行ったのです!神の愛の現れるところであり、愛の証人であったのです。
 さて、私たちの生活には、神の愛が見られるでしょうか?とっさにホームに落ちた人を助けて表彰されたり、西日本の豪雨災害でもボートを出して多くの方を助けたという方がありました。どれも素晴らしいことです。しかしそれらはある意味、非日常的な出来事です。毎日の特別に変わったことのない生活の中で、神様の愛を現しているでしょうか?人の目に着かないようなところでこそ、神様の愛が現されるのではないでしょうか。
 過日「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、世界遺産に登録されました。これから多くの人たちが観光に訪れることでしょう。聖堂を見て、その美しさに感動されることでしょう。しかしここはかつて、多くのキリシタンの血が流され、迫害の厳しさの中にあって命がけで信仰を守った人たちがいたところです。カトリック教会では、彼らを殉教者と呼んでいるのです。証人という聖書の言葉は、殉教、殉教者という言葉から来ています。ですから、主イエス様を証すること、神の愛を表すことにおいては、同じなのですね。普段の生活の中でこそ、神の愛の証人の歩みがあるのです。

 1ヨハネ4:8  愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

2018年7月22日 (日)

神の愛の現れるところ  ヨハネ13:31-35  2017.7.22

本日は、丘の上会堂にて合同礼拝です。今年度のテーマは、礼拝と交わりですが、本日の午後は交わりをみなさんで持ちましょう、ということになっております。
 交わり、聖書ではコイノニアという言葉が使われていますが、共有する、分かち合うという意味があります。交わり、コイノニアは初代教会の姿であり、今日まで受け継がれているキリスト者の営みです。交わりというと、すぐに食事をしたり、お茶を飲みながらお話をする、といったことが思い浮かびますが、それは一面にすぎません。使徒の働きに描かれ、パウロの書簡に見る教会の交わりの姿は、実に多様です。食事の配給や、孤児や未亡人の世話をしたり、災害でダメージを受けた教会のために援助物資や献金を送ったりしています。福音が伝えられていくことも、交わりです。
 それらすべては、神様の愛の現れです。神様の愛は、実に教会にあらわされたのです。逆に言えば、愛が見られない集まりは、どんなに立派な会堂やプログラムがあっても、教会とは言えないのではないでしょうか?神様の愛は、何よりもまず、イエスキリストの十字架にあらわされました。私たちを愛するがゆえに、神の御子が命をなげうって、罪から救ってくださったのです。そして、私たち自身の中に、神様の愛が現されています。まず、神が私たちを愛してくださったからです。

 ローマ5:8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 
 
なぜ神の愛は、このように教会、十字架、そしてイエスを信じる者にあらわされたのでしょうか?それは、神様ご自身が愛の交わりを持っているお方だからです。お一人の神ではあるが、父として、子として、そして聖霊のとしての位格(人格といいたいが、人ではないので位格という)が親しい交わりをもっておられるのです。これはまさに、神秘です。人の理解を超えた、深い神の愛が現されているのです。
 新しい週、あなたはどのようにして、この神様の愛を表していかれるでしょうか。暑くて大変な今年の夏です。ちょっと辛い、夏ですね。私たちの交わりの中に神の愛が現される時、周りの人達はそこに集っているのはキリストの弟子であることに気がつくのです。そうして神の国の福音は、広がっていくのです。

2018年7月 1日 (日)

心を尽くして  マラキ4:1-6  2018.7.1

いよいよ旧約聖書、最後の書となりました。神の国の福音は、新約聖書だけではなく、旧約聖書も含んで豊かな世界が展開されています。このように聖書を読むことができる幸を、まずありがたく思います。
 預言者マラキがどのような人物であるのかは、他の小預言書の著者と同じように、本文から推測する以外にはありません。紀元前500年代から400年代の後半に活動した預言者と思われます。本書は、神様と民との対話形式で書かれているのが、特徴的です。
 本日のテキストの中心のみ言葉は、4節と6節です。かつて、出エジプトの時、モーセがホレブ(シナイ山)で授かった律法は十戒というもので、民の生活を導き、神様への礼拝の指針となる言葉です。しかし時代が下るにしたがってこの律法は忘れられたり、その逆に文字に縛られてその本意から外れて人々の生活をかえって苦しめるようになってしまいました。そこで私たちの主は、あらためて律法の中心は何か、神様が本当に願っていることは何かを明らかに示されました。そして、ご自分のもとに律法から来る重荷を下ろすように、語ってくださったのです(マタイ11:28)。律法の中心とは、心を尽くして神を愛し、又自分を愛するように、他の人を大切にすることでした(マタイ22:36-40)。大河ドラマの主人公西郷さんは「敬天愛人」と言いましたが、このみ言葉を知っていたのかもしれませんね。律法の中心、すなわち書かれた神の言葉である聖書の中心は、この一語に集約されると言ってよいでしょう。
 そしてこの律法をご自分の生涯で表してくださったイエス様こそが、私たちの目当てです。この時代、あなたの置かれているところで、ご自分の心は今どこを向いていますか?いろいろなこと、様々なことがあっても、イエス様から目を離さないこと、イエスに信頼申し上げることです。これまで、預言者の言葉を紐解いてきました。しかしこの終わりの時代には、御子イエスを通して父なる神様は語っておられるのです(へブル1:1-2)
 心とは、私たちの人格の中心に他なりません。新しい週も、私たちの人生のど真ん中に、主イエス様をお迎えして過ごしてまいりましょう。

 

引用聖句
マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

マタイ22:36-40  「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

 

へブル1:1-2 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

 

2018年6月 2日 (土)

神の霊によって  エゼキエル4:1-7  2018.6.3

聖霊は、三位一体なる神の一つの位格です。聖霊も神様ご自身であって、父なる神と子なる神イエスと、親しい交わりを持っています。このようなことは人の能力によることではなく、ただ神様の啓示によることなので、信仰によって理解することであると思います。聖霊は、単なる力ではなく、神ご自身でもあるということを理解してください。

さて、聖霊は人を新しく生まれさせ、教会をも誕生させてくださったお方です。イエスを信じる者は聖霊の宮(神殿、社)となったのです。
   
「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられ  
    る、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありませ
    ん。」1コリント6:19

 人も教会も、自分の力によって成長するのではありません。神の導き、とくに聖霊の導きがなければ決してできないことです。ハガイのシンプルな預言に対して、ゼカリヤは神からの幻を解き明かし、民を牧会するようなメッセージを伝えました。その前提にあるのが、神はあなたがたを他の人が妬むほどに愛しておられる、ということです。クリスチャンも教会も、例えば新年度は何をしようか、と考えます。そしてその実現に向かって、

 奮闘努力をするでしょう。しかしそれを成し遂げるのは、人の権力や能力ではないのです。神の霊によって導かれる時、完成させることができるのです。ゼカリヤたちの目の前には、やりかけた神殿再建がストップしているという状況がありました。リーダーとして立てられているゼルバベルだけでなく、民を鼓舞するメッセージとなっているのです。

今日も、神の宮である私たちのからだの完成のためにも、もう一度エゼキエルの言葉に、謙虚に耳を傾けてみましょう。

ガラテヤ5:16 
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してあ   
   りません。

 

2018年5月26日 (土)

主に頼る仕事  ハガイ2:1-9  2018.5.27

昨日、衆議院の厚生労働委員会で、働き方改革法案が強行採決されたとのニュースがありました。誰でもがやる気を持って働き、それに等しい対価を受け取ることができる、そんな当たり前のことができていないことを改めて知らされます。たしかに働き方を見直してより良い働きにつくことは大切であり、これは人としての当然のことであると思います。

ハガイ書は、短い預言の書ですが、わかりやすいメッセージが語られています。バビロン捕囚から解放されて帰還したユダヤ人は、神殿建設に取り掛かりました。しかし彼らを取り囲む外国からの攻撃もあって、その仕事は頓挫してしまいました。民のやる気は失せ、神殿はそのまま打ち捨てられたような状態であるのに、自分たちの住まいは立派なものとなり、神様を顧みない民となってしまったのです。

そのような中で、預言者ハガイは彼らを叱咤激励し、自らも神殿再建の事業に加わり、やるべき仕事を行ったのでした。彼の活動は、わずか4カ月という短い期間だったようです。彼のメッセージの中心は、4節にある「仕事に取り掛かれ、わたしがあなた方とともにいるからだ-万軍の主のことば-」です。教会に来てまで仕事のことを言われるのはかなわない、もっとゆったりとしたい、と思っている方もあるでしょう。キリスト者にとっての仕事とは、単なる労働だけではありません。奉仕や他の人に仕えること、そして祈りも、大切な仕事なのです。三浦綾子さんは、死ぬことは人生最後の仕事(死事)であるともいわれました。自らの死の備えを教会生活の中でなすことも、大切な仕事なのですね。

賃金をいただけるのではありませんが、天においてよくやった、と主イエスからねぎらいの言葉をいただけるのです。私たちの仕事のポイントは、神様に信頼してことをなす、ということです。金銭を得ること、称賛や名誉を受けることでもありません。神様に信頼して、自分のなすべき務めを果たすことが、霊の神殿である私たち自身を築くことになるのです。それは、この地域にあってキリストの教会を立てあがることにつながっていくのです。

1コリント15:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

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