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礼拝メッセージ

2018年12月 9日 (日)

神の目に留まる者 ルカ1:39-56  2018.12.9

降誕祭、クリスマスの物語に方向があるとすれば、それは上から下ではないかと思います。高い所におられる神様が、低いところにいるもののために降って来て、その人を引き上げてくださる、というイメージです。

本日の個所、特に4656節は、エリサベツに出会ったマリアが歌った賛美で、その出だしのラテン語を取ってマグニフィカトと言われています。ベツレヘムにある訪問教会の壁には、24か国語で書かかれたプレートが貼ってあります。日本語もありました。

主の降誕物語のキーワードの一つは、ダビデという言葉です。イスラエルの最も偉大な王であり、ダビデ王家の家紋は、現イスラエル国旗の紋章として描かれています。イエスは、アブラハムの子孫であるとともに、ダビデの子孫です(マタイ1:1)。マリアの夫ヨセフも、ダビデの家系でした(ルカ1:27)。東方の博士たちは、新しい王が生まれたことを知り、王宮のあるエルサレムを目指してやってきました(マタイ2:1)。実際にはベツレヘムで生まれたのですが、そこはダビデの誕生した町でもあることからダビデの町とよばれ、羊飼いは救い主と会うためにベツレヘムへの急いだのです(ルカ2:11)

このようなことを考えに入れると、その母マリアは王を生んだ母ということですから、とてもえらい人、ということになるでしょう。しかしマリアは、自分をそのような者であるとは思わなかったのです。もっと身分の高い、王宮に住むような人こそ、それにふさわしいことだと考えていたのではないでしょうか。マグニフィカトを読むと、マリヤは如何に自分を低いものとして捉えているかがわかります(48)。しかし、決して自分を卑下してはいないのです。そのようなものに目を留めてくださった方(心にかけてくださった、という訳もある)を覚え、賛美しているのです。低いものを引き上げてくださる、それはまことの神様であり、その方に思いを向けているのです。

イエスキリストは、神である方なのに、人としてこられた方です。生涯の最後は死刑であり、しかもその場所はユダヤ人にとっては呪いの場所である木の上、十字架でした。ユダヤ人社会で起きた出来事であることを思うと、これ以上辱められ、低いところに落とされることはないのです。しかし、イエス様が低いところに降って来られたからこそ、私たちを引き上げてくださるのです。それは、復活の主の力です。

低く打ちのめされた者でも、そこから主を見上げることができれば、その人こそ神の目に留まる者なのです。

2018年12月 2日 (日)

荒野で神を信じる  ガラテヤ3:7-14  2018.12.2

降誕祭、第1主日を迎えました。イエスの誕生の物語は、マタイとルカの福音書に書かれています。新約聖書、1ページ目の第1(マタイ1:1)は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」とあります。三浦綾子さんの小説「塩苅峠」には、このマタイから聖書を読み始めた主人公がいつの間にか眠ってしまうというシーンが描くように、私たちにはわかりにくい人の名前が続いている、あまり面白くない箇所であると言えます。

しかし、「アブラハムの子孫」という書き出しこそ、イエス様が人としてお生まれになったことを表す重要な書き出しなのです。アブラハムは、民族で言えば、ユダヤ人、アラブ人の先祖となります。本日のテキストの次にある4:22には「アブラハムには二人の子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた」とあります。アブラハムには長く子供がいなかったので、彼に仕えている女によって男子を設けます。それがイシュマエルであり、アラブ人の先祖と言われています。妻であるサラにようやく子供が与えられ、イサクと名づけられました。ユダヤ人の先祖である、ということです。宗教的にみれば、かなり大雑把な言い方で申し訳ないのですが、ユダヤ人はユダヤ教徒、アラブ人はイスラム教徒といえます。イスラム教徒にとってアブラハムは、偉大な預言者の一人です。

アブラハムは荒野で神の声を聞き、神を信じ、それが彼の義と認められるところとなりました(6節、創世記15:6)。この神を信じる人、言い換えれば、人としてこられたイエスキリストを信じる人キリスト者は、霊的にアブラハムの子孫と言えます。それがこのガラテヤ3章で語られていることであり(14)、ローマ人への手紙4章でも言われていることです(ローマ4:16)。アブラハムを共通の父としているユダヤ教徒、イスラムの人達、そしてキリスト教徒は、このことを出発点として親しい交わり、平和な関係を築けるのではないかと思います。

それはひとまず置いておくとして、ヨハネの語るクリスマスを見てみましょう。ヨハネはイエスの誕生を物語ではなく、その意味、神様からのメッセージを書いています。イエスはまことの光であり、言葉であり、そして命を与える方です。このイエスを信じる者は、人の思いからではなく神によって生まれた者であり、神の子供とされるというメッセージです。あなたにも誕生の物語があり、家族の歴史があるでしょう。受け入れがたいこともあるかもしれません。アブラハムが旅をした荒野とは、神の言葉を聞く場所です。荒野のような人生であっても、まことの言葉であるイエスがおられるのです。イエスキリスト誕生の物語は、このイエスに言葉を聞いて信じる、私たちの物語に重なっていくのです。

2018年11月23日 (金)

罪びとを救う十字架の言葉  ルカ23:33-43

本日の個所は、救いの物語が明確に述べられている箇所の一つです。

ゲッセマネの園で捕えられたイエスは、夜のうちに裁判を受け、人々の手に渡され、死刑にされるために、自分がはり付けられる十字架を担いで刑場へと歩いて行かれました。その場所はどくろと呼ばれるところでした。エルサレムには、イエスが十字架につけられ葬られた言われている場所が二つあります。郊外にある園の墓と呼ばれているところは、文字通りどくろのように見える丘の近くにあります。もう一つは、聖墳墓教会のドームの下にある場所で、建物に覆われています。しかしこの二か所に共通しているのは、死人を葬る墓ではあるのですが、イエスの復活を証しているのです。どくろは、人の死を表しています。しかし、イエスを信じるものは、死んでも生きるという復活の信仰をいただいているのです。

イエスのつけられた十字架の両側には、極悪人が二人つけられておりました。一人は、イエスをあざける群衆と同じように、イエスに悪態をついていました。しかしもう一人は彼をたしなめ、イエスにこう言うのです。どうかわたしを思い出してください、と。

これは、自分の悪事をみとめ、イエスにお詫びをしている姿です。罪の悔い改めと、イエスを信じる信仰の表明です。それに対してイエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と応えられました。パラダイスとは、神様とともにいる場所です。天国と言っても、良いと思います。罪(つみ)というのは、いわゆる悪事であったり、人の心の中にある悪い思いというのではありません。神様から離れ、わがままな自己中心な思いのことです。この罪をわびてイエスを信じる者は、救われるのです。

十字架の下で、イエスの着ている物をくじ引きで分けていたのは、イエスを十字架につけたローマ兵でした。しかし、十字架につけた者とは、罪を持っている私たち全員なのです。もっと端的に言えば、あなたがイエスを死に追いやったのです。

イエスはこのような私たち罪人を救うために、まず赦しの祈りをされたのでした(34)。くだんの犯罪人はこの言葉を聞いたので、イエスに救いを求めたのかもしれません。イエスを信じる者は、皆、救われるのです。

東方教会(ギリシャ、ロシア正教)の十字架は、八端十字架と言われます。普通の十字架より、2本、線が多いのです。上には罪状書きを表す横線、そして足元には、斜めになった線が書かれています。上に上がった部分は救いを表しますが、下に下がった部分は、悔い改めることなく裁きに下さることを表しているのです。

Ⅰコリント1:18

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

 

2018年11月18日 (日)

朝を迎える幸い  詩篇3:1-8  2018.11.18

 独身時代の時、いわゆる夜逃げをしてきた家族と一緒になった時がありました。その人たちはどうなったのかなあと思ってしまいますが、何かにおわれているという感覚は、あまり良いものではないでしょう。

 本日の詩篇は、あろうことか王であるダビデが、息子の一人であるアブシャロムに追われて逃げていたときの歌です。このような表題は後世につけられたものなので、詩の背景を必ずしも正確に表していないかもしれません。しかし、詩篇の内容を理解するためのリアル感を与えるもので、読む者には役立つものです。ダビデがアブシャロムから逃れている様子は、2サムエル15-17に記されています。

 この物語は、ダビデは助かってエルサレムに戻り、アブシャロムはダビデの家来に打ち取られてしまう、という結末を迎えます。ダビデの逃亡先は、ヨルダン川の東側、ヤボク川に面したマハナイムという町でした(2サムエル17:24)。ダビデは王宮を出たのち、オリーブ山を登って降りて、荒野を通ってヨルダン川を渡り、マハナイムに着いたのでしょう。

 12節には、自分の周りは敵に囲まれていて、命の危うい様子が描かれています。しかし3節で、神は自分を守る盾のようなお方なのだと歌います。主に呼ばわっているダビデには、聖なる山、シオンから助けがある、すなわち、神の助けがあると4節に歌っています。そして、56節では、このような危険な目に合っても安心して眠ることができる、そして翌朝目を覚ますことができる幸いを歌っているのです。

 枕が変わると眠れないとか、真っ暗だと眠れないとか、朝の目覚めが悪いなどという方がありますね。眠りたいのに眠れない、という方も結構おられます。しかしダビデは、王宮の豪華なベッドではなく、岩がごつごつところがっているような荒野でも、ゆっくりと眠ることができる、と言うのです。医学的にどうしたら安眠でき、翌朝気持ちよく目覚めることができるのか、私は良く知りません。しかしここでは、敵に囲まれ、命を狙われているという危険極まりない状況の中でも、神様に信頼している信仰の故に、ゆったりと休んでいるダビデがいるのです。

 私たちも、信仰から来る平安を、いただくことができるのですね。78節は、自分の命を狙う敵を、滅ぼしてくださいという願いです。しかし、ここで考えてしまいました。ダビデの子アブシャロムは父に反逆し、人々の歓心を買って、自ら王位につこうとしていた人物でした。しかし、このような彼にはつらい過去、ある意味同情できることがあったのです(2サムエル1314をお読みください)。ちょっとこれは、アブシャロムに対して、厳しすぎるのではないかと思うのです。しかし、救いは主にあり、神の祝福がある。そこに目を向けたいと思います。

 

2018年11月11日 (日)

主の御名を呼ぶ  マタイ21:12-17  2018.11.11

本日は、子供祝福式が行われました。先月のツアーの折には、エルサレムの嘆きの壁(西の壁)で、バーミツバーの祝いを見ることができました。13歳になった男子のお祝いで、日本で言えば成人式のようなものです。これは大人になったことを祝うものですが、古今東西いつの時代にも、次の時代を担う子供や幼子を祝福する行事がありますね。イエス様が子供たちを祝福したり、皆の前で立たせたりするときは、大人たちへのメッセージ、時には皮肉とも終えるような言葉を語られています。 

本日のテキストは、イエス様の生涯最後の1週間の第2日目に当たる出来事です。週の最初の日に都エルサレムに入られ、翌日は神殿で売り買いしている人や両替人達を追い出すという、ショッキングなことをされました。「宮きよめ」といわれる出来事です。その中で、マタイだけが子供たちが「ダビデの子にホサナ」と言っていたときしています。
 都に入られる時は、子供だけでなく大人たちも棕櫚の葉を取って叫んでいたのですから、子供たちは次の日になってもなお、その興奮が残っていたのでしょう。しかし、そんな子供たちを、祭司長たち大人は腹を立てたのです。現代も、うるさくしている子供たちに対し、不快感を表す人がいますね。
 しかしこの子供たちはただやかましくしていたのではなく、主なる神様を呼んでいたのです。イエス様は彼らの様子を、詩篇8篇を引用して、素晴らしいことであると言っているのです。この詩篇は、世界を造られた神を賛美する歌です。私たち人間だけでなく、被造物もすべて、神をたたえているということでしょう。

主を呼ぶとは、神様への信頼の表現です。たといどのようなつらいところにいても、主を呼ぶことができるのです。神の子であるイエス様自身が、この後、ゲッセマネの園で父なる神様をうめきながら呼んでおられるのです。それは、苦悶の祈りでした。私たちも苦しみの中でこそ、主なる神を呼び、そのお方が聞いてくださると知る時、「主よ、み心をなしたまえ」と委ねる信仰の祝福にあずかることでしょう。
 30歳に満たずに亡くなったキリスト者の詩人、八木重吉は、このような詩を残しました。

さて あかんぼは なぜ あん あん あん あん なくのだろうか

ほんとに うるせいよ

あん あん あん あん あん あん あん あん

うるさか ないよ うるさか ないよ よんでいるんだよ

かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなに しつっこくよびな

 

 おさなごのような心で、主を呼び求めていきたいですね。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。ローマ10:13

2018年11月 4日 (日)

福音の真理に向かって  ガラテヤ2:14-21  2018.11.4 

1017日から31日まで、イスラエル、ローマ、アッシジへの旅を、無事に終えることができました。教会の皆様のお祈りと、事前の励ましやアドバイスに感謝いたします。ネタニアから始まったイスラエルを北から南に回ってエルサレムに入るまでは、外国での初めての運転。目的地はわかっていても、電車とバスの乗り方や降りる場所がわからないローマとアッシジ。そんな中で、事故もなく健康が守られて帰ってこられたこと自体が、奇跡のように思います。ある方が「神様がともにいてくださいましたね」と言ってくださいましたが、まさにその通りだったと思います。

本日の個所は、信仰の後輩であるパウロが、先輩でもあり、イエス様から直接弟子に招かれたペテロを、教会の面前で非難したできごとです。

エルサレムから始まった新しい教会の宣教は、ユダヤ人にとどまらず、異邦人にもおよび、各地にキリスト者の交わり(教会)が生まれてきました。教会の中には、イエスを信じるユダヤ人と、それ以外の他の国の人達、異邦人が集っていました。ペテロはユダヤ人でしたが、宣教の拡大とともに、異邦人とも交わりを持つようになりました。しかし割礼派の人々が来ると、まるで彼らの機嫌を取るかのようになり、異邦人から離れて行ってしまったのです。割礼派の人とは、イエスを信じていてもなお、ユダヤ人として律法を固く守っている人たちのことでしょう。

パウロがペテロを叱責したポイントは、福音はイエスキリストの喜ばしいニュースである、何が喜ばしいかというと、人々の罪が赦され天国への道が開かれただけでなく、キリストにあって人が義と認められ、さらに人種の壁はなく、神の恵みによって一つにされているということです。そのことをペテロは知っているはずなのに、しかも私より信仰の先輩なのに何たることか!ということで、パウロは叱責したのでしょう。のちにペテロは、異邦人にも福音を述べ伝えるようになっていくわけですから、建徳的な叱責でした。教会には、時にこのような厳しいぶつかり合いが、必要なのですね。

大切なことは、2021節にあるように、イエスキリストの死によって生かされ、肉の原理ではなく、神の原理によって生きるということです。私たちも、他の人を差別したり、神様よりも自分中心に考えて行動することはないでしょうか。神様の前に、私たちの人生の申し開きをしなくてならない時が来ます。その日の前に、自らが福音の真理に向かっているかどうか、いつも点検して歩んでまいりましょう。

 「私たちの主であり救い主であるイエスキリストの恵みと知識において

 成長しなさい。2ペテロ3:18

2018年10月14日 (日)

主の定め  詩篇2:1-12  2018.10.14

樹木希林さんが茶の湯の先生をしている映画、「日日是好日」の上映が、13日から始まりました。記念の試写会は、希林さんの追悼茶会になったそうです。この映画のもとは、森下典子さんの同名のエッセイです。この本の解説を噺家の柳家小三治さんが書いておられるのですが、そこに「つぶやきでなく、声に出して読んでください」とありました。実際私も声にだしてこの本を読んでみると、黙読とは違う感動、発見がありました。ぐっとこみあげてくるものがあったのです。

聖書はもともと、それを読む人によって聞く神様の言葉です。詩篇などは、読むだけでなく、歌うものです。黙読する、静かに読むことももちろん良いのですが、声に出して読むことによって、そのような読み方では感じなかったことを、きっと感じることができるでしょう。ご自分の読み方で、時にはゆっくりと、ときには表題にあることを基に情景をイメージしながら読んでいくと、新しい気づきがあると思います。

詩篇第2篇は、参考書を見ると、王の詩篇と言われる部分に属するとありました。この地上の国々や地域には、それぞれを治めている王や為政者がいます。しかし眞の王は、天地を造られた神様ご自身であり、イエスは人としてこの地上に来られた、私たちの王様です。

  1-3節は、この地上の営みが描写されています。21世紀になって、なお国々の争いがあり、自分たちの利益しか考えず、世界征服を企んでいるかのような出来事が起きているのです。
  そのような人間の営みを、1篇に書かれているように吹き飛ばされていく籾殻のように笑っている神様の姿が、4-6に書かれています。しかしその神様の笑いは、争っている人たちを哀れみ、救いの御子を遣わそうという深い思いやりから出ているのです。
  7-9にあるみ言葉は、イエスキリストの誕生と宣教によって実現したのです。紀元前の時代には、まだそのことは預言して語られており、このみ言葉を聞いた人は、私たちのようにキリストの誕生を知ることはありませんでした。しかし預言者の言葉によって、まことの王である神様を知っていったことでしょう。
いつの時代であれ、このことを知った者たちの取るべき態度が、最後の10-12に描かれています。自らをわきまえ、王である神様の前にひざまずき、滅びの道ではなく、命の道に歩むことが主の御心です。「御子に口づけする」とは、あまりなじまない表現ですが、主イエスキリストに対する愛の表現です。この方の愛を受け、私もお仕えいたします、という感じでしょうか。
  主の定めは、滅びの道を行くのではなく、そこから立ち返るために御子イエスキリストを遣わしてくださった、救いの物語なのです。

2018年9月30日 (日)

流れのほとりに  詩篇1:1-6  2018.9.30

詩人の谷川俊太郎さんが、書いておられます。「そう、詩はわからなくても、たべもののようにあじわうことができるんだ。詩を読むと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。」(詩ってなんだろう ちくま文庫) 

本日から、詩篇を説教テキストとして取り上げたいと思っております。新約聖書からイエス様の物語も扱いたいので、毎週というわけではありませんが。詩篇は全部で150篇ありますから、すべてを取り上げると何年かかるやら?どうして詩篇を取り上げるのかと問われれば、「詩篇を読みたくなったから、語りたくなったから」としか言えないような気がいたします。詩人は、書きたくなったから詩を書くのだそうです。それと同じかもしれません。

この世には、優れた注解書や、詩篇をテキストとした説教集が出版されています。実際に説教を聞かれた方もあるでしょう。そのような中ですが、改めて一篇一篇のみ言葉を味わってまいりましょう。

詩篇第1篇には表題がありません。全詩篇の始まりとして、書かれたものと思われます。新改訳聖書第3版と新改訳聖書2017を比べると、3節の翻訳に違いがあります。第3版では「水路のそばに植わった木のようだ」とありますが、2017では「流れのほとりに植えられた木」となっています。他の日本語訳聖書でも、このようになっています。聖書の舞台となっている地方の多くは、荒野です。岩が転がり、茶色で乾燥した地なのです。しかしそこに水の流れがある、小さな川があり、命がはぐくまれている。そんな流れのほとりに木が植えられ、季節が巡って来れば実がなり、葉は枯れないというのです。いわゆる、常緑樹ですね。代表的なのは、ナツメヤシの木でしょうか。

これは人生を表す表現であり、旧約聖書にある族長の一人ヨセフは、「実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。」(創世記49:22)と言われています。水がそばにあることによって、木は生きるのです。私たちに人間も、水がなければ生きていくことができません。そして神様の前に正しく生きるには、霊の水が必要なのです。それはイエス様と結びついていること、イエス様をいただくこと、水を飲むようにしてイエス様のみ言葉を味わうことです。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38) 

時に、心が渇いてしまうことがあります。何をしても満たされないこともあるでしょう。そのような時こそ、詩篇の言葉を口ずさんでみましょう。心だけでなく、あなたのからだも喜ぶことでしょう。

2018年9月 1日 (土)

一つに合うまで  ヨハネ17:20-26  2018.9.2

人は、祈ることができ、また祈ってもらえる存在です。大祭司でもあるイエス様のとりなしの祈りを、今朝は心に留めさせていただきましょう。
 教会の週報に「一週一祷」という欄があり、教会の各委員会の祈りの課題が載っています。どの教会の週報でも、このような祈りの課題が書かれています。
 キリスト者の務めの一つは、とりなしの祈りであると思います。万民祭司を掲げるプロテスタント教会においては、特にこのことは大切です。祈るのをやめるのは罪であるとさえ、聖書に書かれているのです(1サムエル12:23)。ハンス・ビュルキ師は、「主の弟子となるための交わり」という本の中で、真の一致のためのとりなしの祈りの重要性を説いています。その中に「互いのために祈るとは、自分を他の人の立場に移し替え、自分をその人とひとつにし、その人とともに、またその人のために自分を神にささげることです」と書いておられます。
 イエス様の祈りは、まさにとりなしの祈りとして、自分を弟子たちの立場に置き、彼らのために祈られた祈りでした。まずイエスは、弟子たちがこの世にいながらこの世のものではないことを明言します。世界史の中で今日まで、否今日も、キリスト者や教会が迫害を受けてきました。潜伏キリシタンの教会群が世界遺産に登録されましたが、これはキリスト者がこの世にいながらこの世から嫌わた者であることを思い起こす遺産である、と思います。そのような彼らを守ってくださるようにと、母親にも似た思いをもってイエスがとりなしていてくださるのです。
 そして彼らが一つなることを、願っておられるです。16章にある説教の後半では、弟子たちが散らされるとの預言がありました。散らされた弟子たち、今日でいえば、世界中にいるキリスト者が一つになるように、というのが主の願いなのです。しかしその一つになるということは、組織や活動を一つにするというのではありません。三位一体なる神様が、調和を持った交わりを持ちながら一つであるように、教会も一つになりなさい、ということです。霊の一致がまず最初にあるのです。互いの違いをみとめ、受けれつつ、同じキリスト者としてそれぞれの営みをする、それが神の国に生きる者の務めです。
 やがて天国において、私たちは一つに合わされ、完全な一致に入れられるのです。

1ペテロ3:8 
最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

2018年8月26日 (日)

勇気を出しなさい  ヨハネ16:29-33  2018.8.26

本日の聖書個所は、弟子たちと過ごした晩餐の席で語られた、訣別の説教ともいえる部分の最後となります。17章は大祭司としての祈りです。文字通り、主の祈りといえるでしょう。
 ここで語られていることは、これから自分は十字架に渡され一人になり、弟子たちは散らされていく、それでもなお恐れたり心配しないで勇気を出しなさい、ということです。いろいろな喩をもってご自分のことや、神の国について語ってこられたイエスは、ここに至って、はっきりとお話になったのです。そういわれて弟子たちは、初めてイエスを信じたのではありません。30節にある「わかりました」という言葉の意味は、イエスが神の子救い主であることを、弟子たちは腑に落とすことができた、ということでしょう。
 イエスの言葉の中で、「散らされて」という言葉があります。イエスが処刑されると、弟子たちの多くは家に帰ったようです。ガリラヤの漁師だったペテロたちは、又網を打つものとなっていましたが、湖畔で復活の主と出会います。使徒の働きを見ると、初代教会のクリスチャンたちは、迫害によって散らされていきました。しかしその散らされたところで、み言葉を宣べ伝えていたのです。
 
使徒8:14  サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。…散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
 
1世紀の後半、ユダヤ人の一部は、ローマ帝国からの独立を訴えてエルサレムを占拠し、それが戦争となります(ユダヤ戦争)。結末は、70年にエルサレムがローマ軍によって占領され、神殿は破壊され、73年にマサダの砦が陥落して、ローマの勝利に終わります。以後、ユダヤ人は全世界に散らされていきました。20世紀になっても、なお迫害を受けていた民族です。彼らは、散らされたところで共同体を作り、シナゴグ(会堂)を建てて礼拝を守り続けています。
 キリスト者も散らされましたが、それぞれのところで共同体(教会)を立ち上げ、み言葉を宣べ伝え、今日に至っています。しかし教会は、それぞれの地域、国々の文化や習慣の中で、信仰を育んでいったのです。ですから、一言でキリスト教会といっても、実に多様です。福音は、一民族に限るものではなく、世界に広がるいのちを最初から持っていたからです。様々な困難の中でも、イエスによって与えられ「勇気を出しなさい」という言葉に励まされてきたのです。

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