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礼拝メッセージ

2019年4月 7日 (日)

神が生きておられることの証し  詩篇18:46-50 2019.4.7

先週の1日は、新元号の発表日でした。昭和から平成になった時とは大違いで、まるで令和フィーバーともいえる日だったのではないでしょうか。ただでもらった号外や記念品が高額で売買されたり、改元に付け込んだオレオレ詐欺が横行する、まったく悲しくなるような出来事も続いています。元号に恥じ入るような行動ではないかと思うのです。しかし、わたしたちの歴史は、元号によって区切られるものではありません。まことの神であるイエスキリストのみ手の中にあって、営まれていることを、謹んで悟らなければならないと思います。

 本日のテキストの背景は、表題にあるように、ダビデが敵、特にサウロによって追われていたときの経験があります。同じような詩が、2列王記22章に描かれています。命の危険を感じながら逃亡生活を送るということは、なんと大変なことであったかと思います。この詩篇はしかし、そんなダビデを生かしてくださる神を賛美し、神が生きておられることを証している詩篇です。

46節が主題のみ言葉であると言えます。この言葉は、旧約聖書では、誓って何かを言う時の定型句のように使われたり、大事なことを言う前に襟を正されるような感覚で使われている言葉です。神が生きておられるということは、私たちに命が与えられている、どのような境遇に置かれていても、生かされるということです。イエスキリストの十字架と復活を知っている私たちは、たとい死んでも生きるというイエスの言葉を、受け止めることができます。どのような苦難や、死に至るような病の中にあっても、神は生かしてくださると言えるのです。それは、イエスを信じる者は、天国行きの約束をいただいただけでなく、それまでの生涯を主の復活の証人として生きることができるからです。イエスキリストを信じているということは、日常茶飯事の出来事は神が生きておられることの証しそのものであるということです。

新聖歌257番は「キリストは生きておられる」という讃美歌です。ビル&グロリア・ゲイサー夫妻によって作られました。英語の原詩と日本語訳はかなり違っています。3節のヒントになったのは、グロリアさんのお父様が残していた死についての言葉でした。「そして、いつの日か 私は河を渡るだろう。私は人生の最後の戦いに苦痛とともに立ち向かう。そして、そのとき、死は勝利にのまれる。私は栄光の輝きを見て、主が生きておられるのを知るだろう。」この言葉こそ、神は生きておられることの証しです。私たちも、神が生きておられること、復活のキリストの証人として、この週も過ごしていきたいものです。

 

 

 

 

 

2019年3月31日 (日)

悔い改めなければ  ルカ13:1-9  2019.3.31

受難節、第4主日となりました。本日のテキストは、思いがけない災難に遭った人たちのことが描かれている箇所です。20113月のあの大震災、津波、そして原発事故の後に書かれたこの個所の注解、あるいは引用した文章を読むと、それ以前の物と内容が違っているように感じます。ほかの人と言うより、私もこの個所の読み方、理解の仕方が変わったと思っております。何よりも、聖書に書かれていることは他人ごとではなく、まず自分自身に向けられている言葉であるという理解です。これは当たり前のことなのですが、実際にはそこに描かれているイエス様の物語をどれだけ真剣に自分のこととして捉えているか、探られるところです。

イエスが大勢の人々に話をされているまさにその最中に、ある人達がやってきました。そして、ガリラヤ人がその礼拝中に危害を加えられ、死傷者が出ている、というようなことを告げたのです。犠牲になった人たちは、神様の罰が当たった罪深い人達ではなかったのか、と思った人がいたのでしょう。イエスはすかさず言われました。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。そして、シロアムの塔が倒れ、下敷きなってしまった人たちの出来事を引き合いに出して、再び同じことを言われたのです。1-5節までのキーワードは、「悔い改めなければ」ということです。

悔い改めとは、方向を変えること、神様のとのかかわりでいえば、神に立ち帰ることです。続いて語られたぶどう園に植えたいちじくの木のたとえ話は、その悔い改めの実が結ばれなければ、切倒されてしまう(滅ぼされてしまう)ということです。口先だけではない真の悔い改めには、目に見えるもの、実際生活の変化が必ずあるということです。イエスの苦難は、ご自分の罪の故ではなかったので、悔い改める必要はありません。その苦難が、自分のためであったことを知る時、私たちは悔い改め、神に立ち帰ることができるのです。

奥様を天に送って20年以上、丘の上会堂に集っている方が、当教会の受洗者名簿に登録されました。50年前に洗礼を受けておられましたが、洗礼を受けた日は復活祭ではなく受難節の日曜日でした。その理由は、キリストと苦難を共にした弟子のように、受難前から信仰の道に入ろうと決心したからだと言われるのです。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。ローマ11:22

2019年3月 3日 (日)

試みを受けた主  ルカ4:1-13  2019.3.3

西方教会の教会歴によれば、今週水曜日は「灰の水曜日」と言われ、これから主イエスの受けられた苦しみを覚える受難節に入ります。主の復活を祝う復活祭まで、自らの生活を吟味し、悔い改めてその実を結ぶことができれば、喜びにあふれた復活祭を迎えることができるでしょう。あなたにとって、主イエスはどのようなお方でしょうか?どのようなイメージを持っておられるでしょうか。この時期は、試みを受けた方であることに思いを向けたいと思います。

本日のテキストは、共観福音書に描かれている、荒野の誘惑の場面です。昨年のイスラエルツアーで、ヨルダン国に面したヨルダン川岸辺に下り立ちました。ヨハネ1:28「このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。」とあるベタニア、今日ではカスエルヤフッドと言われているところです。すぐ近くには荒野が広がっており、ガリラヤ湖の南、ヨルダン川となっていくヤルデニットよりも聖書の雰囲気を伝えている場所のように思いました。洗礼を受けたイエスは、ユダの荒野で試みを受けました。水や食べ物を絶って、まったく一人になるという40日間でした。空腹の極みの時に、悪魔が三つの問いをもってイエスを試みたという場面です。有名な「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、この場面で語られたものでした。三つの試みを通して、イエスはみ言葉により頼み、神様を信頼していくことこそ、誘惑に打ち勝つ道であることを示されました。

イエスの生涯は、試みの連続であったと言えるでしょう。人としての苦しみ悲しみ、弟子や家族に見放されるという心の苦しみ、時の宗教指導者の手に渡され厳しく責められるという精神的肉体的苦しみ、そして最後は犯罪人として十字架につけられ、人々のあざけりを受けるという全人格否定の苦しみ、それは筆舌に尽くしがたいものであったはずです。

しかしイエスは、このような試み、苦しみをスルーすることなく、真正面から受け止め、味わわれたのです。へブル書にはこのようなイエスの姿が描かれています。  
 2:18
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」 
 4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
これらのみ言葉は、私たちの主イエスが私たちの苦しみや弱さに共感し、大祭司として父なる神にとりなしてくださっていることを示しています。このお方が、私たちの人生の同伴者なのです。この方とともに、これから始まる受難節を歩んでまいりましょう。

2019年2月24日 (日)

見捨てることのない神  詩篇16:1-11  2019.2.24

私たちの生活において、人に見捨てられるほど悲しい経験はないと思います。また、理不尽な仕打ちを受けたり、思わぬ事故に遭遇するようなことがあれば、運に見放された、あるいは、神に見捨てられたと感じることでしょう。

詩篇16篇の作者は、まず「神よ、私をお守りください。私はあなたに身を避けています。」と語ります。赤ちゃんがお母さんの腕の中に抱かれ、守られているようなイメージです。「どんなことがあっても、お母ちゃんは僕のことを守ってくれる!」という信頼感があるのです。ところが、私たちの周りでは、親が子供を虐待し、命までも奪ってしまうというニュースが毎日のように聞こえてくるのです。親が我が子を見捨ててしまうのです。私の感覚では、ありえないことです。

2節から6節は、さらに続けて神様に信頼する作者の言葉が続いています。測り縄を使って人の領分が測られ、そして守られるように、神様が守ってくださるのです。

7節から11節は、神を賛美する言葉です。神のくださる幸いは、9節にあるように、喜びと楽しみと安らぎです。10節と11節は、死という神に見捨てられるように思う出来事に遭遇したとしても、なお神は生かしてくださることを歌っています。そしてこのみ言葉は、新約聖書にも引用されているのです。ペテロは、あのペンテコステの日に、帝国内の各地から祭りのために上ってきた同胞に、イエスキリストの物語を語りました。そしてこのみ言葉を引用して、イエスの復活を語ったのです。その結果、人々は心を刺され、悔い改めてイエスを信じバプテスマを受けたのです。3000人もの人々がキリストを信じ、エルサレムに教会が生まれたのでした。アンティオキアに旅をしたパウロも又、このみ言葉を引用し、イエスの復活を語りました。この時、ユダヤ人は彼に反対してパウロをののしりましたが、異邦人たちは喜んで彼の言葉に耳を傾け、イエスを信じる人たちが多く起こされたのでした。ペテロやパウロの説教は諸刃の剣のように、信じる者とこれを拒絶する者に分けてしまいました。しかし二人とも、詩篇16を引用して、ナザレ人イエスは死んだけれどもよみがえり、これこそが福音のメッセージの確信であることを語ったのでした。

どんなことが起ころうとも私たちを見捨てることのないお方が、今日もいてくださるのです。

へブル12:2 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

2019年2月 3日 (日)

神の臨在  詩篇15:1-5  2019.2.3

教会に集うようになって、同じような年代の青年達と軽井沢でキャンプを行いました。開会の礼拝で歌われたのが、新聖歌316でした。その歌詞の第3節に「いかにきよき交わりぞや、妨ぐるものなし、昼も夜も臨在あり、依り頼むわれらに」とありました。この賛美に感動し、語られた説教(青年担当執事のIさんが、山室軍平の生涯からお話ししてくれた)によって、神様がともにいてくださること、その神様に自分をおまかせして歩むことがいかに大切なことか、ということを教えられた時となりました。

詩篇15篇は、14篇とは違って、神がイスラエルの民とともにいてくださること(神の臨在)をはっきりと語り、その証しとしてきよい生活があることを示しています。2節から5節には、極めて実際的な生活の勧めが記されています。「主に捨てられたものを蔑み」と4節には厳しいことが書かれていますが、心底神様に従うことの大切さを逆説的に言った言葉であると理解できます。

1節の言わんとしていることは、「幕屋」と「聖なる山」にこそ神がおられるということです。幕屋とは、イスラエルの民の行く先々で建てたテントであり、神を礼拝する場所でした。モーセによるエジプト脱出から始まる荒野を放浪している時代から始まり、カナンの地にイスラエルの部族が定着するまでの期間にありました。聖なる山とはシオンのことで、エルサレムに建てられた神殿と言ってよいでしょう。ダビデが準備をし、その子ソロモンが神殿の建築を完成させ、奏献の祈りが1列王記8章に書かれています。

幕屋も神殿も、神の臨在の象徴でした。実際には人の手で作った建物の中に神を入れることなどできないことは、ソロモンの認識しているところでした。創造主である神様は、時間や空間に制限されるお方ではありません。どこにでもおられ、神を信じる者とともにいてくださる方なのです。

イエスキリストの救いの御業によって、信者は神の宮とされています。

  1コリント6:1920.あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あ 

 なたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや

 自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたので

 す。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

幕屋や神殿は今はありませんが、日常茶飯事にあっても神様がおられることを忘れてはならないのです。神の臨在こそが、私たちをどんな境遇にあっても支えてくださる力となるからです。

2019年1月27日 (日)

神はいない、と言う者  詩篇14:1-7  2019.1.27

40年近く前に発行された森本哲郎氏の本に「そして文明は歩む」というのがあります。神の数で語った宗教文明論ともいうような内容で、大変興味深く、今も時々見ることがあります。森本氏によれば、以下のように分類しています。

ユダヤ教、イスラム教→一の文化

易経(中国)→二の文化

キリスト教→三の文化

インド→無の文化

日本→万(よろず)の文化

キリスト教を元としているヨーロッパ、アメリカの文明を、一ではなく、三としているところが面白いのですが、今日はおいておきましょう。日本では、確かにあらゆるものが神となる、神羅万象あらゆるところに神がおられる、といった感覚であると思います。もっとも、禅宗は突き詰めると無の世界、神はいないとする世界観ですが、そのようなことにも捕らわれないとするのですから、独特の世界観だと思います。

詩篇の14篇では、神はいないと心の中で言う者は、愚か者であるとまず言っています。宣言しているような感じです。これは、知的なことで神の存在を否定しているのではありません。神がおられるのに、その神に心を向けない、全く関知しないで生きている、そういうことが愚かなことであると言っているのです。ここで言う神は、お正月の教会の床の間に掛けられていた「神」の軸が現している、神です。創造主であり、全能の方であり、一人でありながら三つの位格を持つお方です。そのご性質は聖であり、愛に富んだ方でもあるのです。

神がご覧になる世界の人たちは、皆が離れて行っています(3)。この言葉は、わき道にそれるという意味で、新約聖書にあてはめれば、的外れという意味に近いと思います。聖書で言う罪はまさに的外れということであり、ローマ3:23にある「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」というみ言葉を思い起こさせます。

神様を信じていると言っても、心の中で神はいない、と言ってしまうことがあるのです。信仰が、板についていないのですね。信仰と不信仰の間を揺れ動くことがあって、それは当然のことなのです。神に問い、信仰を探っていく、そのような中で、神様に深く根差していくことができるのです。神はいないと言う者の中で、こんなひどい状況を観ても神は何も言わないのか、と問う中で、キリスト者の信仰は深められていくのです。

2019年1月20日 (日)

逃げ場  詩篇11:1-7  2019.1.20

 昨年、長崎の潜伏キリシタン遺跡群が世界遺産に登録されました。キリシタン殉教の歴史は、ステンドグラスの入った教会のたたずみと合わせて、ロマン的歴史として語られるかもしれません。しかし当時の吟味、取り調べは過酷なものでした。映画にもなった遠藤周作氏の「沈黙」に登場する井上政重、通称築後守は、キリシタンや宣教師、神父を捕らえて処刑するというこれまでの方針を変え、彼らを棄教させる、つまり転ばせることに精力を使いました。私なりに彼のその方針にあるものは、キリシタンたちが信じている神などいないではないか、ということを示すことにあったと思います。「神がいるならば、どうしてこんなひどいことが起きるのか、神がいるならばこの苦しみから救われるはずではないか、しかし神は何も言わない、お前たちの信じている神などいないのだ!」ということでしょう。

 詩篇11、そして14篇は、信仰者に神の不在、神を信じることの愚かさを訴えている人に対し、主なる神は確かにおられ、その方のもとに安らぐことの幸を歌ったものです。11篇の背景は、作者が何者かに追われ、そこから逃げている出来事があったと思われます。3、7篇の表題と似ていますね。たしかに、逃げることなく立ち向かうことは大切なことです。過日引退を表明した稀勢の里関は、自分の立場から逃げることなく最後まで綱を張った力士であったと思います。

 しかし時には、逃げなければ、あるいは避けなければ自分の命を失うことがあります。大切なのは、逃げ場や避難所はしっかりと保護してくれるところであるかどうか、ということです。この詩篇の作者、それはダビデであると思われますが、主なる神様こそ私たちを守ってくださる真の避け所であると歌っています。

 「鳥のように自分の山に飛んでいけ」とは面白い表現です。丘の上教会の東側には、森があります。そこは野鳥のねぐらとなっています。朝にはキジの甲高い声が聞こえ、夜にはフクロウの低い声が聞こえてきます。新聖歌313番は、このテーマをうたった讃美歌と言えるでしょう。「鳥のごと山に逃げよわが魂、真清水は傷を たちまち癒さん、仇びとは間近に攻め来る時も、救い主そばにませばなど恐れん、ませばなど恐れん」

 聖書には、預言者をはじめ多くの人たちが逃げ場を持ち、そこに身を避けることによって癒されて再び立ち上がる様が描かれています。キリスト教会では、リトリート(退修会)、サバティカル(安息)といった呼び名で、普段の生活から離れて静まり、再び立つ力を受ける期間を持つことが勧められています。どのような困難があっても、身を避ける場所がある。誰が何と言おうと、主なる神が私たちの逃げ場となってくださっているのです。

2019年1月13日 (日)

教会を通して広まる福音  使徒11:19-26  2019.1.13

本日は、東地区7教会による新年聖会、合同の礼拝が越谷で持たれる日です。今回のテーマは「キリストにあって一つ-教会の多様性と一致」であり、浦和教会の坂野慶吉先生が説教をしてくださいます。また、一つであることの表れとして、聖餐式も行われることなっております。事情があってその時間に集うことのできない兄姉のために、そのことを心に留めながらの礼拝であり、説教です。

日本に福音が伝えらえれ、教会が生み出されたのは、1549年です。一番最初の教会は、イエス様昇天後聖霊が下った約2000年前、エルサレムに生まれました。いわゆる初代教会です。そこから福音は全世界に広まって、今日に至っています。この福音は、人から人へ伝えられていったのですが、教会を通してのことでした。個人的にお伝えする、というようなことではなかったのです。

本日のテキストは、初めはユダヤ人しか知らなかった福音が、言葉の違いや国境を越えて、当時の地中海世界にあるギリシャ語を話す人達(ヘレニスト)に広まっていったこと様子が描かれています。その拠点となったのは、アンティオキアにある教会でした。ローマによってエルサレムは占領され、神殿は破壊されました。ユダヤ人は離散の民となりました。エルサレムあった神殿礼拝を基にしたユダヤ人中心の交わりから、ユダヤ人以外の人達(異邦人)が集まる教会が多くなっていったと思われます。イエス様が命じられた「全世界に出て行って福音を伝えよ」との言葉をダイナミックに実践したのが、アンティオキアの教会といえるでしょう。この街で、イエスを信じている人たち、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれたのです。英語で言えば、クリスチャンですね。キリスト+イアン、ということで、キリストに付く者、キリストに従う者という意味です。春日部の町を愛する人をカスカビアンと言うのですが、同じ発想です。地域を越えて、教会が生まれ、形造られていきました。

福音の宣教は、教会を通してなされたのです。なぜでしょうか?それは、わたしたちの主イエスが愛されたのは、教会だったからです(エペソ5:25)。このイエス様による教会への愛は、今も変わることがありません。キリスト教2000年、日本のキリスト教史約570年の中で、教会が生まれ今日に至っています。祝福とともに、いろいろな困難も抱えています。負の歴史の部分もあったことでしょう。今年、2019年は日本の歴史の中でも大切な年になるような気がいたします。そのような時代で、教会はその使命である福音を宣べ伝えることをやめることはできません。教会は、わたしたちの主が命を懸けて愛してくださった、キリスト者の群れであり、全世界の教会は同じ愛と使命を持っているからです。

2019年1月 6日 (日)

小さい者であることを悟る  詩篇8:1-9  2019.1.6

主イエスキリストの2019年、明けましておめでとうございます。本年も説教要約をつづってまいりますので、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

昨年「日日是好日」という映画を観ました。同名の小説を映画化したもので、樹木希林さんが全身がんに侵されながらも茶の湯の先生として出演されたことで、話題になりました。その一場面に、床の間に「瀧」という一文字が書かれており、そこから主人公が堂々と流れ落ちる滝をイメージするシーンがありました。軸はたとい読めなくても、眺めれば良いものだということを語る場面です。

丘の上教会の新年茶会では、「神」という一文字の軸が掛けられました。筆の最後はすうーっと下に引かれている、本田弘慈先生による書です。さて、この軸を観る人は、どんな「神」をイメージするでしょうか。映画のように映像で描くと、どのような場面になるでしょうか?

本紙には、創世記171節とあり、99歳になったアブラム(のちにアブラハム)に語られた神様の言葉で、ここに書かれている神とは全能の神であることがわかります。詩篇8篇の1節、3節にあるように、この世界のすべての基である神を表しています。それに比して、人間はなんと小さい存在でしょうか。しかしそんな小さな存在であっても、神が目を留めて生かしてくださっているということを歌っているのが4節の言葉です。

30年もの長きにわたり原因の分からない病に苦しんでいたある方が、こう書いておられました。「私は本物の宗教に出会えたと思う。それは自分がいかに小さいかということを知ることであった。…宇宙のなかの小さい自分に気づいてみると、自分が宇宙の懐に抱きかかえられているように感じられた。…何でもないことであった。この一つに気づいたことで、私の心はすっとほどけた。」その方の病の原因が後にわかり、病そのものを抱えながらも、良き隣人の支えもあり癒された日々を送っておられます。

これはまさに、待降節で学んだ、乙女マリアの心境でもあったと思います。小さな自分であることに気づくことは、実は圧倒的に大きな神様の懐に抱かれ、自分らしく生きていく力と希望を与えられることなのです。神様は、この小さな人間に、この世界を正しく治め、管理することを命じられました。不遜にも、おのれの力を過大に評価し、この世界を自分のものにしようとしたところに環境の破壊があり、独裁・恐怖政治が行われ、経済の営みにも格差が生まれてしまうのではないでしょうか。

小さい者であることを悟れば、自分だけでなく、他の人をも大切にする、そしてお互いが支え合って生きる喜びを知っていけることでしょう。

2018年12月30日 (日)

癒されて新しい年を迎える  詩篇6:1-10  2018.12.30

この時期になると、無病息災家内安全商売繁盛を願う風景が見られます。大掃除をして家を清めて、すがすがしい気持ちで新年を迎えたいとは、誰もが願うことでしょう。

詩篇6篇は、作者がとてもつらい状況に置かれており、神の怒りが自分に降ったかのように感じている詩篇です。そのような中で、癒しを求め、救われることを切に願っているのです。この詩篇は、7つの悔い改めの詩篇の一つに分類されています。ポイントは、悔い改めるということです。いわば、こころの大掃除です。しかし汚れを落とすというのではなく、神様のとの関係を元の正しい関係に戻し、神様に従って歩む決心をするということです。

「わたしを癒してください」とあることから、詩人は大きな病を抱えていたのかもしれません(2)。ヘブル語聖書で病気を表す言葉の一つは、「打つ」「触れる」という言葉から派生したものです。病気という概念の最も基本的なものは、(神様も含め)何かに打たれるということだと考えられます。ですから、病が重ければ重いほど、何かの原因で自分は打ちのめされたのではないかと、考えてしまうのは当然のことでしょう。だれでも、無病息災を願います。病をおっていたら、癒されて元気になることを願うのは、世の東西を問わず、全世界で共通のことでしょう。病が癒されるということは、悪い患部が治るということよりも、私たちを打つことすらできる神様との関係が正されることであり、それが完全な回復であると思います。

またこの詩人は、敵対する者や悪を行う者を恐れていたと思われます(78)。彼に危害を加える人がいたのでしょうか。聖書では、最後の敵は死である、と言っています(1コリント15:26)。とすると、死の恐れから解放されるのは、神様との正しい関係を取り戻さなければできないこととなります。人が病み、そして死ぬ存在であるのは、突き詰めれば神様との正しい関係を失った罪びとであることにその原因があるのです。

その解決は、人として生まれてくださり、十字架上で死なれたイエスにあります。イエスは人の罪を負った方でした。イエスが受けられた傷こそが、わたしたちを癒すのです。1ペテロ2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」

癒されて新しい年を迎えるとは、悔い改めて神様との正しい関係を回復して、新しい年を歩むということに他ならないのです。2019年も、豊かな祝福がありますように。

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