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礼拝メッセージ

2018年8月 5日 (日)

イエスを信じる者の姿  ヨハネ15:11-17  2018.8.5

祈り会の学びのテキストとして、ハンス・ビュルキ師の「主の弟子となるための交わり」という本を使っています。ビュルキ師はすでに召された方ですが、キリスト者の霊性に関して、大きな影響を与えた方であったと思います。この本の中に「信仰の働き-能動的か、受動的か」という章がありました。神様を信じている人の信仰の方向は、二者択一、あるいはどちらかを排除するのではなく、その両面があるというのが、師の言おうとされたことであると思います。
 たしかに、私がイエス様を信じた時のことを思い返すと、その両面があったと思います。高校3年生の終わりころ、ある日曜日の礼拝後に、通っていた教会の牧師の個人伝道によって、「はい、イエスを信じます」と言ったのはわたしの決断でした。しかしのちに思い返すと、その日に限って「今日、イエス様を信じたい」という思いが強くなっていたのです。また聖餐式では、礼拝に集っている人の中でまだイエス様を信じていない人が信じることができるように、との祈りがささげられていたのです。これらのことを思うと、神様が私を信仰に導いてくださったのであって、自分はそれを知らずに受け入れただけなのだ、ということもできるのです。
 本日のテキストの16節は、まさにこのことを裏付けるみ言葉であり、イエスを信じる者が生涯貫く信仰の方向、信仰生活を送る姿勢にもなっているのです。神様がしてくださることがある、そして人もなすべきことがある、そのすべては実を結ぶためなのです。ブドウが実をつけるのは、房が枝に結びつき、枝は幹に結びついているからだ、というのは誰でも知っています。もちろん、しっかりと根を張っていなければならないことは、いうまでもありません。これは、私たちがイエスに結びついていることの必要を語る、イラストレーションです。文脈から言えば、この実とは、イエス様がおっしゃった互いに愛し合うという生活、愛という実のことでしょう。
 「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年」という言葉あるそうです。短いスパンで人を見るのではなく、長い目で見なさいということを教えている言葉でもあるそうです。丘の上にある柚子の木もまさにその通りで、ずっと実をつけなかったのですが、今年は青い実をたくさんつけているのです!うれしくなりました。枝を落としたり、根を切ったりしましたが、そのまま置いておきました。イエス様に結ばれていること、それが信仰者の姿であり、実を結ぶ人生となるのです。

ルカ1:38
  マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたの
  おことばどおり、この身になりますように。」

2018年7月29日 (日)

神の愛の証人  ヨハネ13:31-35  2018.7.29

先週は、丘の上会堂で、共に礼拝をささげることができました。大変暑い日だったので、次回は涼しい時のほうが良いかもしれませんね。礼拝後の交わりタイム、イスラエル在住の姉妹によるスライド上映が、好評でした。
 本日の説教は、先週の流れを受けています。キリスト者にとって、神様が愛の方である、お互いに愛し合うということは当たり前のことで、あまり関心を払っていないかもしれません。あるいは食傷気味で、「また神の愛ですか~?」といった感じで取られる方もあるかもしれませんね。
 主イエスは、私たちの生活のあらゆる面で、神の栄光を表すようにと言われました。そして、神を愛すること、自分を大切にするように隣人を愛することが、律法の中心であるともいわれたのです。その主イエスは、語ったことを実際に行ったのです!神の愛の現れるところであり、愛の証人であったのです。
 さて、私たちの生活には、神の愛が見られるでしょうか?とっさにホームに落ちた人を助けて表彰されたり、西日本の豪雨災害でもボートを出して多くの方を助けたという方がありました。どれも素晴らしいことです。しかしそれらはある意味、非日常的な出来事です。毎日の特別に変わったことのない生活の中で、神様の愛を現しているでしょうか?人の目に着かないようなところでこそ、神様の愛が現されるのではないでしょうか。
 過日「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、世界遺産に登録されました。これから多くの人たちが観光に訪れることでしょう。聖堂を見て、その美しさに感動されることでしょう。しかしここはかつて、多くのキリシタンの血が流され、迫害の厳しさの中にあって命がけで信仰を守った人たちがいたところです。カトリック教会では、彼らを殉教者と呼んでいるのです。証人という聖書の言葉は、殉教、殉教者という言葉から来ています。ですから、主イエス様を証すること、神の愛を表すことにおいては、同じなのですね。普段の生活の中でこそ、神の愛の証人の歩みがあるのです。

 1ヨハネ4:8  愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

2018年7月22日 (日)

神の愛の現れるところ  ヨハネ13:31-35  2017.7.22

本日は、丘の上会堂にて合同礼拝です。今年度のテーマは、礼拝と交わりですが、本日の午後は交わりをみなさんで持ちましょう、ということになっております。
 交わり、聖書ではコイノニアという言葉が使われていますが、共有する、分かち合うという意味があります。交わり、コイノニアは初代教会の姿であり、今日まで受け継がれているキリスト者の営みです。交わりというと、すぐに食事をしたり、お茶を飲みながらお話をする、といったことが思い浮かびますが、それは一面にすぎません。使徒の働きに描かれ、パウロの書簡に見る教会の交わりの姿は、実に多様です。食事の配給や、孤児や未亡人の世話をしたり、災害でダメージを受けた教会のために援助物資や献金を送ったりしています。福音が伝えられていくことも、交わりです。
 それらすべては、神様の愛の現れです。神様の愛は、実に教会にあらわされたのです。逆に言えば、愛が見られない集まりは、どんなに立派な会堂やプログラムがあっても、教会とは言えないのではないでしょうか?神様の愛は、何よりもまず、イエスキリストの十字架にあらわされました。私たちを愛するがゆえに、神の御子が命をなげうって、罪から救ってくださったのです。そして、私たち自身の中に、神様の愛が現されています。まず、神が私たちを愛してくださったからです。

 ローマ5:8しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 
 
なぜ神の愛は、このように教会、十字架、そしてイエスを信じる者にあらわされたのでしょうか?それは、神様ご自身が愛の交わりを持っているお方だからです。お一人の神ではあるが、父として、子として、そして聖霊のとしての位格(人格といいたいが、人ではないので位格という)が親しい交わりをもっておられるのです。これはまさに、神秘です。人の理解を超えた、深い神の愛が現されているのです。
 新しい週、あなたはどのようにして、この神様の愛を表していかれるでしょうか。暑くて大変な今年の夏です。ちょっと辛い、夏ですね。私たちの交わりの中に神の愛が現される時、周りの人達はそこに集っているのはキリストの弟子であることに気がつくのです。そうして神の国の福音は、広がっていくのです。

2018年7月 1日 (日)

心を尽くして  マラキ4:1-6  2018.7.1

いよいよ旧約聖書、最後の書となりました。神の国の福音は、新約聖書だけではなく、旧約聖書も含んで豊かな世界が展開されています。このように聖書を読むことができる幸を、まずありがたく思います。
 預言者マラキがどのような人物であるのかは、他の小預言書の著者と同じように、本文から推測する以外にはありません。紀元前500年代から400年代の後半に活動した預言者と思われます。本書は、神様と民との対話形式で書かれているのが、特徴的です。
 本日のテキストの中心のみ言葉は、4節と6節です。かつて、出エジプトの時、モーセがホレブ(シナイ山)で授かった律法は十戒というもので、民の生活を導き、神様への礼拝の指針となる言葉です。しかし時代が下るにしたがってこの律法は忘れられたり、その逆に文字に縛られてその本意から外れて人々の生活をかえって苦しめるようになってしまいました。そこで私たちの主は、あらためて律法の中心は何か、神様が本当に願っていることは何かを明らかに示されました。そして、ご自分のもとに律法から来る重荷を下ろすように、語ってくださったのです(マタイ11:28)。律法の中心とは、心を尽くして神を愛し、又自分を愛するように、他の人を大切にすることでした(マタイ22:36-40)。大河ドラマの主人公西郷さんは「敬天愛人」と言いましたが、このみ言葉を知っていたのかもしれませんね。律法の中心、すなわち書かれた神の言葉である聖書の中心は、この一語に集約されると言ってよいでしょう。
 そしてこの律法をご自分の生涯で表してくださったイエス様こそが、私たちの目当てです。この時代、あなたの置かれているところで、ご自分の心は今どこを向いていますか?いろいろなこと、様々なことがあっても、イエス様から目を離さないこと、イエスに信頼申し上げることです。これまで、預言者の言葉を紐解いてきました。しかしこの終わりの時代には、御子イエスを通して父なる神様は語っておられるのです(へブル1:1-2)
 心とは、私たちの人格の中心に他なりません。新しい週も、私たちの人生のど真ん中に、主イエス様をお迎えして過ごしてまいりましょう。

 

引用聖句
マタイ11:28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

マタイ22:36-40  「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

 

へブル1:1-2 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

 

2018年6月 2日 (土)

神の霊によって  エゼキエル4:1-7  2018.6.3

聖霊は、三位一体なる神の一つの位格です。聖霊も神様ご自身であって、父なる神と子なる神イエスと、親しい交わりを持っています。このようなことは人の能力によることではなく、ただ神様の啓示によることなので、信仰によって理解することであると思います。聖霊は、単なる力ではなく、神ご自身でもあるということを理解してください。

さて、聖霊は人を新しく生まれさせ、教会をも誕生させてくださったお方です。イエスを信じる者は聖霊の宮(神殿、社)となったのです。
   
「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられ  
    る、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありませ
    ん。」1コリント6:19

 人も教会も、自分の力によって成長するのではありません。神の導き、とくに聖霊の導きがなければ決してできないことです。ハガイのシンプルな預言に対して、ゼカリヤは神からの幻を解き明かし、民を牧会するようなメッセージを伝えました。その前提にあるのが、神はあなたがたを他の人が妬むほどに愛しておられる、ということです。クリスチャンも教会も、例えば新年度は何をしようか、と考えます。そしてその実現に向かって、

 奮闘努力をするでしょう。しかしそれを成し遂げるのは、人の権力や能力ではないのです。神の霊によって導かれる時、完成させることができるのです。ゼカリヤたちの目の前には、やりかけた神殿再建がストップしているという状況がありました。リーダーとして立てられているゼルバベルだけでなく、民を鼓舞するメッセージとなっているのです。

今日も、神の宮である私たちのからだの完成のためにも、もう一度エゼキエルの言葉に、謙虚に耳を傾けてみましょう。

ガラテヤ5:16 
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してあ   
   りません。

 

2018年5月26日 (土)

主に頼る仕事  ハガイ2:1-9  2018.5.27

昨日、衆議院の厚生労働委員会で、働き方改革法案が強行採決されたとのニュースがありました。誰でもがやる気を持って働き、それに等しい対価を受け取ることができる、そんな当たり前のことができていないことを改めて知らされます。たしかに働き方を見直してより良い働きにつくことは大切であり、これは人としての当然のことであると思います。

ハガイ書は、短い預言の書ですが、わかりやすいメッセージが語られています。バビロン捕囚から解放されて帰還したユダヤ人は、神殿建設に取り掛かりました。しかし彼らを取り囲む外国からの攻撃もあって、その仕事は頓挫してしまいました。民のやる気は失せ、神殿はそのまま打ち捨てられたような状態であるのに、自分たちの住まいは立派なものとなり、神様を顧みない民となってしまったのです。

そのような中で、預言者ハガイは彼らを叱咤激励し、自らも神殿再建の事業に加わり、やるべき仕事を行ったのでした。彼の活動は、わずか4カ月という短い期間だったようです。彼のメッセージの中心は、4節にある「仕事に取り掛かれ、わたしがあなた方とともにいるからだ-万軍の主のことば-」です。教会に来てまで仕事のことを言われるのはかなわない、もっとゆったりとしたい、と思っている方もあるでしょう。キリスト者にとっての仕事とは、単なる労働だけではありません。奉仕や他の人に仕えること、そして祈りも、大切な仕事なのです。三浦綾子さんは、死ぬことは人生最後の仕事(死事)であるともいわれました。自らの死の備えを教会生活の中でなすことも、大切な仕事なのですね。

賃金をいただけるのではありませんが、天においてよくやった、と主イエスからねぎらいの言葉をいただけるのです。私たちの仕事のポイントは、神様に信頼してことをなす、ということです。金銭を得ること、称賛や名誉を受けることでもありません。神様に信頼して、自分のなすべき務めを果たすことが、霊の神殿である私たち自身を築くことになるのです。それは、この地域にあってキリストの教会を立てあがることにつながっていくのです。

1コリント15:58
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

2018年5月 6日 (日)

父の約束、御子の命令  使徒1:1-11  2018.5.6

恵風和という言葉に表されるように、心地よい風が吹く季節になりました。聖書では、聖霊は風に例えられています。それはまた、神様の息吹のことです。
 教会歴では、この時期はイエスの復活からエルサレムに教会が誕生する間の期間です。復活されたイエスが40日間弟子たちに現れ、オリーブ山から天に昇り(昇天)、聖霊が下ってイエスを信じる者が多く起こされ、教会が誕生するという出来事を記念する期間です。聖霊が下るということは、4節にあるように、父なる神の約束でした。このことは弟子たちと過ごした晩餐の席で、すでに語られていたことでした。
ヨハネ14:6「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
 
この約束の実現が、使徒2章にある教会の誕生で、ユダヤの暦では五旬節の祭りの時でした。今日ではこの日を記念して、聖霊降臨日と呼んでいます。この父の約束を待て、というのが子なる神であるイエスの命令だったのです。生前のイエスの命令は「互いに愛し合いなさい」ということでした。聖霊が下って教会が誕生し、私たちはこの命令に従って、主にある兄弟愛をもって互いに愛し合うことに努めているのです。
 父なる神の約束が成就した今、その約束を待てとのイエスの命令は、過去の出来事で今の私たちには関係のないことなのでしょうか?時間的にはそうですが、今の私たちにもこれは当てはまるのです。聖霊によって歩みなさいということは、聖書全体が教えていることです。
ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい」とのみ言葉は、キリストを信じる者の歩みは、聖霊によることを端的に表しています。イエスが命じられたように、日々聖霊のお働きを待って、期待して歩むことが大切なのです。
 聖霊は風に例えられますから、私たちにはそれがどこから吹いてどのようにいくのかわかりません。聖霊に聞くこと、身を任せることが大切です。先週のGWでは、100メートルにもなる大きなこいのぼりが、皐月の空に泳ぎました。また、100畳敷きにもなる大凧が、空を舞いました。どちらも風がなければ、上がることはなく、風を受けてその雄姿を表すこともないのです。私たちも、父の約束である聖霊をイエスの命令を守りながら受けて、キリストを証する日々を過ごしてまいりましょう。

2018年4月29日 (日)

主の日-裁きと祝福  ゼパニヤ1:1-9  2018.4.29

本書の著者であるゼパニヤについては、短く書かれています。5代前までさかのぼって先祖の名前が書かれていますが、これだけではどのような家系であったのか、わかりませんね。時代の背景は、南王国ユダの王はヨシヤであったとあります。BC640609年ごろと思われます。ヨシヤは、天地を造られた神への礼拝を回復し、律法の書を発見して改めて朗読させ、過ぎ越しの祭りのいけにえを捧げた人物でした。「宗教改革」を成し遂げた王として評価されています。しかしエジプト王ネコとの戦いにおいて、ユーフラテス河畔のカルケミシュにおいて戦死してしまいます。この辺りのことは、Ⅱ歴代誌3435章を参照してください。
 ゼパニヤ書は、他の小預言書と共通しているように、主の日が近づいていることと、その日に備えることが中心的なテーマとなっています。主の日は、終末における神の裁きの時であり、すべての人、特にエルサレムに住んでいる人に臨む厳しい時であると言えます。すべてのものを造られた主である神は、陶器師が失敗した作品を作り直すように、この世界をリセットしてもう一度新しくすることのできる方なのです。しかしそれは、悔い改めて神に立ち返った者にとっては、祝福の時ともなっています。新約聖書によれば、死んだ人もよみがえるという、イエスキリストによってなされた救いの御業が完成する時です(
ヨハネ6:39  わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。)。裁きの日であるとともに、祝福の日でもあるのです。
 使徒の働きやパウロの書簡を見ると、主の日は終末という未来の日を表すだけでなく、週の初めの日に集まり、礼拝をささげる日であったということがうかがえます。使徒20:7には「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とあり、今日でいう聖餐式を守っていたり、他の個所を参照すると、献金をしていたことがわかるのです。日曜日は、言うまでもなく、イエスキリストがよみがえられたことを記念する日です。その日を主の日、聖日と言ってともに集い、礼拝を守り、またお互いに愛の奉仕をする(
1ペテロ4:7,8万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。)日となっていったのです。このことは、主の日の過ごし方について示唆を与えています。
 主の日が神の裁きの日であるとともに、祝福の日であることを覚えて、慎みをもって過ごしたいものです。

2018年4月15日 (日)

信仰によって生きる ハバクク2:1-4  2018.4.15

ハバククが預言者として活動した時代は、南王国ユダが周りを取り囲まれている強大な国から圧迫を受けている時でした。ペルシャやエジプトも倒され、やがてユダもバビロニア帝国に捕囚の民となって連れ去れるようになる、そんな苦難の時代でした。
 本書の中心聖句は、2:4の「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉でしょう。カトリックのフランシスコ会訳聖書では「見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る、しかし、正しい人はその誠実さによって生きる。」となっていました。解説には「『生きる』と対応させて、崩れる、気を失う、衰えるなどの意味の言葉に読み替え『崩れ去る』と訳した」とありました。
 現代でも、生きるということはいろいろな場面で使われる、大切な言葉であり、文字通り生きることは価値のあることです。季節ごとの旬の食材をたべるのも、命をいただいて人間が生きることを味わう具体的な行為です。ハバククは、人が生きるのは偶像から立ち返って、この天地を造り私たちを愛している神様を信頼していくことこそが、真に人を生かすと言っているのです。このみ言葉は、新約聖書に3回引用されています。
ローマ1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるか
  らです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ガラテヤ3:11  律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないという
  ことは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
へブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの
  心は彼を喜ばない。」
 特に、ローマ1:17は、宗教改革者のマルティン・ルターが引用した言葉として有名です。彼はこのみ言葉を一瞬にして悟ったというのではなく、彼の内面の葛藤、家庭内で子供をなくすという苦しみ、そして聖書を学ぶ苦しみの中で、ようやく人は信仰によって神の前に正しい者とされることに行きあたったのでした。この辺りのことは、宗教改革500年の節目であった昨年、NHKR2のカルチャーラジオで放送されていました。私たちにも、苦難や葛藤があります。一瞬にしてそのような苦しみから解放されるということよりは、その中にあって神を待ち望んでいく、そのようなことの中から次第に生かされていることを味わうようになることでしょう。

2018年4月 8日 (日)

福音を伝える者 ナホム1:12-15  2018.4.8

歴史の出来事と、聖書に書かれている物語を照らし合わせると、おもしろいことが多くあります。ナホム書はアッシリア帝国の首都であったニネベが陥落と滅亡の預言を記した書です。そして実際に、ニネベは紀元前612年に新バビロニア帝国によって滅ぼされました。古代オリエントが統一され、やがてギリシャ、ローマ帝国の支配へと移っていく歴史の一コマです。
 ニネベがどのように滅ぼされたのか、その描写が2章に書かれています。敵国の略奪によるニネベの人たちの悲惨な叫び声が聞こえてくるような描写で、心が痛みます。彼らは、ヨナの宣教によって悔い改め、滅びをまぬかれたはずでした。しかしいつの間にか悔い改めたことを忘れ、自分たちの欲望のままにふるまうようになってしまったのです。
 アッシリア滅亡の理由は歴史家によって諸説挙げられています。その中でも、時の王アシュルハニバルは民の窮状を救うために有効な手立てをしなかったばかりか、欲望にふけり、王妃(愛人?)と一緒に燃える炎の中に飛び込んで最期を遂げた、愚かな王によって国は滅んだという説が目を引きます。
 ニネベが滅びる前に、南王国ユダは圧迫を受け、苦しみを味わいます。しかしそのようなユダに対して、やがて解放される時が来ること、そしてあなた方は良い知らせを伝える者なのだ、と慰めと励ましを語ったのが、本日の聖書個所です。良い知らせを伝える者の足が山々の上にあるとは、脚力にたけた人たちが知らせを素早く伝えることを表します。あるいは、山にのろしを上げて情報伝達を速やかに行った様を示しています。このみ言葉は、ローマ1015に引用されています。
 
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 良い知らせ、すなわち、福音を信じることによって人は救われるのですが、伝えられなければわかりません。ですから、その福音を伝える人は立派な働きをしている人と言えるわけです。
 教会の使命は、どのような時代であっても福音を伝える人です。キリスト者は、自分の足で福音を証する者なのです。それはまことに立派な働きなのです。

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