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礼拝メッセージ

2019年6月 2日 (日)

なおも神を待ち望む 詩篇22:1-21 2019.6.2

表題に「暁の雌鹿」の調べに合わせて、とあります。黎明会メンバーにはふさわしい表題ですね。朝毎に歌われる詩篇だったようですが、これが実際どのようなメロディーであったのかは、わからないようです。日本の雌鹿の泣く声も聞いたことのない自分には、なかなか想像するのが難しいところです。しかし尺八の曲で「鹿の遠音」というのを聞いたことがあります。二頭の鹿(あるいはカップル)がお互いに遠くから鳴き交わす楽曲なのですが、そのイメージが浮かんできてしまいます。

 本篇は、イエスの十字架の処刑の場面に引用されている聖句が、1節、7,8節、11節、18節、に記されています。イエスの受難を預言している詩篇ともいえるでしょう。また本篇には、雌鹿のほかに、雄牛(12)、犬(16、20)、獅子(1321)、野牛(21)という四つの動物が出てきます。雌鹿は雅歌によれば愛する人のことですから、救い主であるイエスの喩となっている動物です。ほかの四つの動物は、これに対抗するイスラエルの指導者、イエスをあざける人々、そしてサタンを喩えている動物であると言えます。

 また6節には「私は虫けらです」と言って、作者自身を人々から嫌われ、踏みつけられ潰される小さな虫にたとえています。出エジプト記には、この言葉が腐ったマナにわく虫として描かれています(出エ16:20)。面白いことに、22:6に使われている虫は、ココス・イリシスという名前の小さな虫で、潰すと緋色の染料の元になるのだそうです。イザヤ1:18にある「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」と同じ言葉です。この染料で染めた色はなかなか落ちないということですから、緋色は頑固な罪を表す喩えです。しかし神は、罪に染まった私たちを清めてくださる方であることが、強調されています。十字架で流されたキリストの血が、私たちの罪をきよめてくださることを、知ることができるのです。

 ダビデは、人間の罪故の苦しみ、あるいは病気や不条理な苦しみの中でも、神に訴え、祈り、呼びかけています。しかし何も答えてくれない、まさに沈黙しているような神様への訴えを、やめることはないのです。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスは、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と祈り、苦しみの中ですべてを神様に委ねて息を引き取られたのです。このイエスを、父なる神はよみがえらせ、イエスを信じる者に命を与えてくださいました。神を求め、神の救いを待ち望む者は、見捨てられることはないのです。

2019年5月 5日 (日)

神の栄光を表す 詩篇19:1-14  2019.5.5

祝日、国民の休日などが続き、今年のGWは10連休ですね。これは改元に伴なうことで、このような日取りになることはこの先にはまず起こらないでしょう。ある方にとっては10連勤というようなことで、今までにない忙しい日々を過ごしている方もおられることでしょう。

 私が学生だった頃は、グループサウンズやフォークソングがはやった時期でした。その中にサイモンとガーファンクルの「サウンドオブサイレンス」という曲がありました。友人と一緒に、映画も観に行きました。今でもこの歌詞はいろいろに解釈されている歌です。タイトルを直訳すれば「静寂の音」ですが、静かなのにどうして音が聞こえるのか、ということになります。しかしこれは芭蕉の「静かさや~」という句に通じるタイトルではないかと思うのです。そして本日のテキストである詩篇19は、それらの本歌ではないかと思わせる詩篇です。

 たしかに人間の耳には、音声として神の言葉は聞こえてこないでしょう。しかし、たとえば、山や川や海などのような圧倒的な大自然の中に立った時、人の存在を越えた何かすごい存在、英語で言えば Something Great!としかいいようない何かを感じることがあるでしょう。

日本人は、そのように感じるあらゆるものを神、あるいは霊として祭り、畏敬の念を表してきました。聖書はしかし、わたしたちが自然界と呼んでいる物は神によって造られたものである、被造物であるというのです。4-6は、太陽に関する描写ですが、これもまた神によって造られたもの、いわば作品の一つなのです。「勇士のようにその走路を走る」とは、規則正しい宇宙の営みを表しています。日本人は、太陽を神としてきました。平成天皇から、令和天皇への代替わりの儀式の中心にあるのは、天照大神にそのことをまず報告し、そして歴代の天皇の霊(御霊)、日本のすべての神々(八百万の神)に報告するものです。ここに、聖書と日本人の神観に大きな違いが見られます。世界を造られた方がおられることを知る時、人は真に謙遜にさせられ、自らの傲慢を悔い改め、他の人だけでなくこの世界の生き物とも仲良く暮らそうと思うことができるのです。

神によって造られた世界が、ご自身の栄光を表しているのなら、イエスキリストによって新しく創られたキリスト者も又、神の栄光を表しているのです。それは、日常茶飯事の中でなされる人の営みです。飲み食いの中に、神の栄光を表しているかどうか、改めて点検させられますね。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。1コリント10:31

2019年4月 7日 (日)

神が生きておられることの証し  詩篇18:46-50 2019.4.7

先週の1日は、新元号の発表日でした。昭和から平成になった時とは大違いで、まるで令和フィーバーともいえる日だったのではないでしょうか。ただでもらった号外や記念品が高額で売買されたり、改元に付け込んだオレオレ詐欺が横行する、まったく悲しくなるような出来事も続いています。元号に恥じ入るような行動ではないかと思うのです。しかし、わたしたちの歴史は、元号によって区切られるものではありません。まことの神であるイエスキリストのみ手の中にあって、営まれていることを、謹んで悟らなければならないと思います。

 本日のテキストの背景は、表題にあるように、ダビデが敵、特にサウロによって追われていたときの経験があります。同じような詩が、2列王記22章に描かれています。命の危険を感じながら逃亡生活を送るということは、なんと大変なことであったかと思います。この詩篇はしかし、そんなダビデを生かしてくださる神を賛美し、神が生きておられることを証している詩篇です。

46節が主題のみ言葉であると言えます。この言葉は、旧約聖書では、誓って何かを言う時の定型句のように使われたり、大事なことを言う前に襟を正されるような感覚で使われている言葉です。神が生きておられるということは、私たちに命が与えられている、どのような境遇に置かれていても、生かされるということです。イエスキリストの十字架と復活を知っている私たちは、たとい死んでも生きるというイエスの言葉を、受け止めることができます。どのような苦難や、死に至るような病の中にあっても、神は生かしてくださると言えるのです。それは、イエスを信じる者は、天国行きの約束をいただいただけでなく、それまでの生涯を主の復活の証人として生きることができるからです。イエスキリストを信じているということは、日常茶飯事の出来事は神が生きておられることの証しそのものであるということです。

新聖歌257番は「キリストは生きておられる」という讃美歌です。ビル&グロリア・ゲイサー夫妻によって作られました。英語の原詩と日本語訳はかなり違っています。3節のヒントになったのは、グロリアさんのお父様が残していた死についての言葉でした。「そして、いつの日か 私は河を渡るだろう。私は人生の最後の戦いに苦痛とともに立ち向かう。そして、そのとき、死は勝利にのまれる。私は栄光の輝きを見て、主が生きておられるのを知るだろう。」この言葉こそ、神は生きておられることの証しです。私たちも、神が生きておられること、復活のキリストの証人として、この週も過ごしていきたいものです。

 

 

 

 

 

2019年3月31日 (日)

悔い改めなければ  ルカ13:1-9  2019.3.31

受難節、第4主日となりました。本日のテキストは、思いがけない災難に遭った人たちのことが描かれている箇所です。20113月のあの大震災、津波、そして原発事故の後に書かれたこの個所の注解、あるいは引用した文章を読むと、それ以前の物と内容が違っているように感じます。ほかの人と言うより、私もこの個所の読み方、理解の仕方が変わったと思っております。何よりも、聖書に書かれていることは他人ごとではなく、まず自分自身に向けられている言葉であるという理解です。これは当たり前のことなのですが、実際にはそこに描かれているイエス様の物語をどれだけ真剣に自分のこととして捉えているか、探られるところです。

イエスが大勢の人々に話をされているまさにその最中に、ある人達がやってきました。そして、ガリラヤ人がその礼拝中に危害を加えられ、死傷者が出ている、というようなことを告げたのです。犠牲になった人たちは、神様の罰が当たった罪深い人達ではなかったのか、と思った人がいたのでしょう。イエスはすかさず言われました。「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と。そして、シロアムの塔が倒れ、下敷きなってしまった人たちの出来事を引き合いに出して、再び同じことを言われたのです。1-5節までのキーワードは、「悔い改めなければ」ということです。

悔い改めとは、方向を変えること、神様のとのかかわりでいえば、神に立ち帰ることです。続いて語られたぶどう園に植えたいちじくの木のたとえ話は、その悔い改めの実が結ばれなければ、切倒されてしまう(滅ぼされてしまう)ということです。口先だけではない真の悔い改めには、目に見えるもの、実際生活の変化が必ずあるということです。イエスの苦難は、ご自分の罪の故ではなかったので、悔い改める必要はありません。その苦難が、自分のためであったことを知る時、私たちは悔い改め、神に立ち帰ることができるのです。

奥様を天に送って20年以上、丘の上会堂に集っている方が、当教会の受洗者名簿に登録されました。50年前に洗礼を受けておられましたが、洗礼を受けた日は復活祭ではなく受難節の日曜日でした。その理由は、キリストと苦難を共にした弟子のように、受難前から信仰の道に入ろうと決心したからだと言われるのです。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。ローマ11:22

2019年3月 3日 (日)

試みを受けた主  ルカ4:1-13  2019.3.3

西方教会の教会歴によれば、今週水曜日は「灰の水曜日」と言われ、これから主イエスの受けられた苦しみを覚える受難節に入ります。主の復活を祝う復活祭まで、自らの生活を吟味し、悔い改めてその実を結ぶことができれば、喜びにあふれた復活祭を迎えることができるでしょう。あなたにとって、主イエスはどのようなお方でしょうか?どのようなイメージを持っておられるでしょうか。この時期は、試みを受けた方であることに思いを向けたいと思います。

本日のテキストは、共観福音書に描かれている、荒野の誘惑の場面です。昨年のイスラエルツアーで、ヨルダン国に面したヨルダン川岸辺に下り立ちました。ヨハネ1:28「このことがあったのは、ヨルダンの川向こうのベタニアであった。ヨハネはそこでバプテスマを授けていたのである。」とあるベタニア、今日ではカスエルヤフッドと言われているところです。すぐ近くには荒野が広がっており、ガリラヤ湖の南、ヨルダン川となっていくヤルデニットよりも聖書の雰囲気を伝えている場所のように思いました。洗礼を受けたイエスは、ユダの荒野で試みを受けました。水や食べ物を絶って、まったく一人になるという40日間でした。空腹の極みの時に、悪魔が三つの問いをもってイエスを試みたという場面です。有名な「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、この場面で語られたものでした。三つの試みを通して、イエスはみ言葉により頼み、神様を信頼していくことこそ、誘惑に打ち勝つ道であることを示されました。

イエスの生涯は、試みの連続であったと言えるでしょう。人としての苦しみ悲しみ、弟子や家族に見放されるという心の苦しみ、時の宗教指導者の手に渡され厳しく責められるという精神的肉体的苦しみ、そして最後は犯罪人として十字架につけられ、人々のあざけりを受けるという全人格否定の苦しみ、それは筆舌に尽くしがたいものであったはずです。

しかしイエスは、このような試み、苦しみをスルーすることなく、真正面から受け止め、味わわれたのです。へブル書にはこのようなイエスの姿が描かれています。  
 2:18
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」 
 4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
これらのみ言葉は、私たちの主イエスが私たちの苦しみや弱さに共感し、大祭司として父なる神にとりなしてくださっていることを示しています。このお方が、私たちの人生の同伴者なのです。この方とともに、これから始まる受難節を歩んでまいりましょう。

2019年2月24日 (日)

見捨てることのない神  詩篇16:1-11  2019.2.24

私たちの生活において、人に見捨てられるほど悲しい経験はないと思います。また、理不尽な仕打ちを受けたり、思わぬ事故に遭遇するようなことがあれば、運に見放された、あるいは、神に見捨てられたと感じることでしょう。

詩篇16篇の作者は、まず「神よ、私をお守りください。私はあなたに身を避けています。」と語ります。赤ちゃんがお母さんの腕の中に抱かれ、守られているようなイメージです。「どんなことがあっても、お母ちゃんは僕のことを守ってくれる!」という信頼感があるのです。ところが、私たちの周りでは、親が子供を虐待し、命までも奪ってしまうというニュースが毎日のように聞こえてくるのです。親が我が子を見捨ててしまうのです。私の感覚では、ありえないことです。

2節から6節は、さらに続けて神様に信頼する作者の言葉が続いています。測り縄を使って人の領分が測られ、そして守られるように、神様が守ってくださるのです。

7節から11節は、神を賛美する言葉です。神のくださる幸いは、9節にあるように、喜びと楽しみと安らぎです。10節と11節は、死という神に見捨てられるように思う出来事に遭遇したとしても、なお神は生かしてくださることを歌っています。そしてこのみ言葉は、新約聖書にも引用されているのです。ペテロは、あのペンテコステの日に、帝国内の各地から祭りのために上ってきた同胞に、イエスキリストの物語を語りました。そしてこのみ言葉を引用して、イエスの復活を語ったのです。その結果、人々は心を刺され、悔い改めてイエスを信じバプテスマを受けたのです。3000人もの人々がキリストを信じ、エルサレムに教会が生まれたのでした。アンティオキアに旅をしたパウロも又、このみ言葉を引用し、イエスの復活を語りました。この時、ユダヤ人は彼に反対してパウロをののしりましたが、異邦人たちは喜んで彼の言葉に耳を傾け、イエスを信じる人たちが多く起こされたのでした。ペテロやパウロの説教は諸刃の剣のように、信じる者とこれを拒絶する者に分けてしまいました。しかし二人とも、詩篇16を引用して、ナザレ人イエスは死んだけれどもよみがえり、これこそが福音のメッセージの確信であることを語ったのでした。

どんなことが起ころうとも私たちを見捨てることのないお方が、今日もいてくださるのです。

へブル12:2 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

2019年2月 3日 (日)

神の臨在  詩篇15:1-5  2019.2.3

教会に集うようになって、同じような年代の青年達と軽井沢でキャンプを行いました。開会の礼拝で歌われたのが、新聖歌316でした。その歌詞の第3節に「いかにきよき交わりぞや、妨ぐるものなし、昼も夜も臨在あり、依り頼むわれらに」とありました。この賛美に感動し、語られた説教(青年担当執事のIさんが、山室軍平の生涯からお話ししてくれた)によって、神様がともにいてくださること、その神様に自分をおまかせして歩むことがいかに大切なことか、ということを教えられた時となりました。

詩篇15篇は、14篇とは違って、神がイスラエルの民とともにいてくださること(神の臨在)をはっきりと語り、その証しとしてきよい生活があることを示しています。2節から5節には、極めて実際的な生活の勧めが記されています。「主に捨てられたものを蔑み」と4節には厳しいことが書かれていますが、心底神様に従うことの大切さを逆説的に言った言葉であると理解できます。

1節の言わんとしていることは、「幕屋」と「聖なる山」にこそ神がおられるということです。幕屋とは、イスラエルの民の行く先々で建てたテントであり、神を礼拝する場所でした。モーセによるエジプト脱出から始まる荒野を放浪している時代から始まり、カナンの地にイスラエルの部族が定着するまでの期間にありました。聖なる山とはシオンのことで、エルサレムに建てられた神殿と言ってよいでしょう。ダビデが準備をし、その子ソロモンが神殿の建築を完成させ、奏献の祈りが1列王記8章に書かれています。

幕屋も神殿も、神の臨在の象徴でした。実際には人の手で作った建物の中に神を入れることなどできないことは、ソロモンの認識しているところでした。創造主である神様は、時間や空間に制限されるお方ではありません。どこにでもおられ、神を信じる者とともにいてくださる方なのです。

イエスキリストの救いの御業によって、信者は神の宮とされています。

  1コリント6:1920.あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あ 

 なたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや

 自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたので

 す。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

幕屋や神殿は今はありませんが、日常茶飯事にあっても神様がおられることを忘れてはならないのです。神の臨在こそが、私たちをどんな境遇にあっても支えてくださる力となるからです。

2019年1月27日 (日)

神はいない、と言う者  詩篇14:1-7  2019.1.27

40年近く前に発行された森本哲郎氏の本に「そして文明は歩む」というのがあります。神の数で語った宗教文明論ともいうような内容で、大変興味深く、今も時々見ることがあります。森本氏によれば、以下のように分類しています。

ユダヤ教、イスラム教→一の文化

易経(中国)→二の文化

キリスト教→三の文化

インド→無の文化

日本→万(よろず)の文化

キリスト教を元としているヨーロッパ、アメリカの文明を、一ではなく、三としているところが面白いのですが、今日はおいておきましょう。日本では、確かにあらゆるものが神となる、神羅万象あらゆるところに神がおられる、といった感覚であると思います。もっとも、禅宗は突き詰めると無の世界、神はいないとする世界観ですが、そのようなことにも捕らわれないとするのですから、独特の世界観だと思います。

詩篇の14篇では、神はいないと心の中で言う者は、愚か者であるとまず言っています。宣言しているような感じです。これは、知的なことで神の存在を否定しているのではありません。神がおられるのに、その神に心を向けない、全く関知しないで生きている、そういうことが愚かなことであると言っているのです。ここで言う神は、お正月の教会の床の間に掛けられていた「神」の軸が現している、神です。創造主であり、全能の方であり、一人でありながら三つの位格を持つお方です。そのご性質は聖であり、愛に富んだ方でもあるのです。

神がご覧になる世界の人たちは、皆が離れて行っています(3)。この言葉は、わき道にそれるという意味で、新約聖書にあてはめれば、的外れという意味に近いと思います。聖書で言う罪はまさに的外れということであり、ローマ3:23にある「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」というみ言葉を思い起こさせます。

神様を信じていると言っても、心の中で神はいない、と言ってしまうことがあるのです。信仰が、板についていないのですね。信仰と不信仰の間を揺れ動くことがあって、それは当然のことなのです。神に問い、信仰を探っていく、そのような中で、神様に深く根差していくことができるのです。神はいないと言う者の中で、こんなひどい状況を観ても神は何も言わないのか、と問う中で、キリスト者の信仰は深められていくのです。

2019年1月20日 (日)

逃げ場  詩篇11:1-7  2019.1.20

 昨年、長崎の潜伏キリシタン遺跡群が世界遺産に登録されました。キリシタン殉教の歴史は、ステンドグラスの入った教会のたたずみと合わせて、ロマン的歴史として語られるかもしれません。しかし当時の吟味、取り調べは過酷なものでした。映画にもなった遠藤周作氏の「沈黙」に登場する井上政重、通称築後守は、キリシタンや宣教師、神父を捕らえて処刑するというこれまでの方針を変え、彼らを棄教させる、つまり転ばせることに精力を使いました。私なりに彼のその方針にあるものは、キリシタンたちが信じている神などいないではないか、ということを示すことにあったと思います。「神がいるならば、どうしてこんなひどいことが起きるのか、神がいるならばこの苦しみから救われるはずではないか、しかし神は何も言わない、お前たちの信じている神などいないのだ!」ということでしょう。

 詩篇11、そして14篇は、信仰者に神の不在、神を信じることの愚かさを訴えている人に対し、主なる神は確かにおられ、その方のもとに安らぐことの幸を歌ったものです。11篇の背景は、作者が何者かに追われ、そこから逃げている出来事があったと思われます。3、7篇の表題と似ていますね。たしかに、逃げることなく立ち向かうことは大切なことです。過日引退を表明した稀勢の里関は、自分の立場から逃げることなく最後まで綱を張った力士であったと思います。

 しかし時には、逃げなければ、あるいは避けなければ自分の命を失うことがあります。大切なのは、逃げ場や避難所はしっかりと保護してくれるところであるかどうか、ということです。この詩篇の作者、それはダビデであると思われますが、主なる神様こそ私たちを守ってくださる真の避け所であると歌っています。

 「鳥のように自分の山に飛んでいけ」とは面白い表現です。丘の上教会の東側には、森があります。そこは野鳥のねぐらとなっています。朝にはキジの甲高い声が聞こえ、夜にはフクロウの低い声が聞こえてきます。新聖歌313番は、このテーマをうたった讃美歌と言えるでしょう。「鳥のごと山に逃げよわが魂、真清水は傷を たちまち癒さん、仇びとは間近に攻め来る時も、救い主そばにませばなど恐れん、ませばなど恐れん」

 聖書には、預言者をはじめ多くの人たちが逃げ場を持ち、そこに身を避けることによって癒されて再び立ち上がる様が描かれています。キリスト教会では、リトリート(退修会)、サバティカル(安息)といった呼び名で、普段の生活から離れて静まり、再び立つ力を受ける期間を持つことが勧められています。どのような困難があっても、身を避ける場所がある。誰が何と言おうと、主なる神が私たちの逃げ場となってくださっているのです。

2019年1月13日 (日)

教会を通して広まる福音  使徒11:19-26  2019.1.13

本日は、東地区7教会による新年聖会、合同の礼拝が越谷で持たれる日です。今回のテーマは「キリストにあって一つ-教会の多様性と一致」であり、浦和教会の坂野慶吉先生が説教をしてくださいます。また、一つであることの表れとして、聖餐式も行われることなっております。事情があってその時間に集うことのできない兄姉のために、そのことを心に留めながらの礼拝であり、説教です。

日本に福音が伝えらえれ、教会が生み出されたのは、1549年です。一番最初の教会は、イエス様昇天後聖霊が下った約2000年前、エルサレムに生まれました。いわゆる初代教会です。そこから福音は全世界に広まって、今日に至っています。この福音は、人から人へ伝えられていったのですが、教会を通してのことでした。個人的にお伝えする、というようなことではなかったのです。

本日のテキストは、初めはユダヤ人しか知らなかった福音が、言葉の違いや国境を越えて、当時の地中海世界にあるギリシャ語を話す人達(ヘレニスト)に広まっていったこと様子が描かれています。その拠点となったのは、アンティオキアにある教会でした。ローマによってエルサレムは占領され、神殿は破壊されました。ユダヤ人は離散の民となりました。エルサレムあった神殿礼拝を基にしたユダヤ人中心の交わりから、ユダヤ人以外の人達(異邦人)が集まる教会が多くなっていったと思われます。イエス様が命じられた「全世界に出て行って福音を伝えよ」との言葉をダイナミックに実践したのが、アンティオキアの教会といえるでしょう。この街で、イエスを信じている人たち、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれたのです。英語で言えば、クリスチャンですね。キリスト+イアン、ということで、キリストに付く者、キリストに従う者という意味です。春日部の町を愛する人をカスカビアンと言うのですが、同じ発想です。地域を越えて、教会が生まれ、形造られていきました。

福音の宣教は、教会を通してなされたのです。なぜでしょうか?それは、わたしたちの主イエスが愛されたのは、教会だったからです(エペソ5:25)。このイエス様による教会への愛は、今も変わることがありません。キリスト教2000年、日本のキリスト教史約570年の中で、教会が生まれ今日に至っています。祝福とともに、いろいろな困難も抱えています。負の歴史の部分もあったことでしょう。今年、2019年は日本の歴史の中でも大切な年になるような気がいたします。そのような時代で、教会はその使命である福音を宣べ伝えることをやめることはできません。教会は、わたしたちの主が命を懸けて愛してくださった、キリスト者の群れであり、全世界の教会は同じ愛と使命を持っているからです。

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