フォト
無料ブログはココログ

礼拝メッセージ

2019年2月 3日 (日)

神の臨在  詩篇15:1-5  2019.2.3

教会に集うようになって、同じような年代の青年達と軽井沢でキャンプを行いました。開会の礼拝で歌われたのが、新聖歌316でした。その歌詞の第3節に「いかにきよき交わりぞや、妨ぐるものなし、昼も夜も臨在あり、依り頼むわれらに」とありました。この賛美に感動し、語られた説教(青年担当執事のIさんが、山室軍平の生涯からお話ししてくれた)によって、神様がともにいてくださること、その神様に自分をおまかせして歩むことがいかに大切なことか、ということを教えられた時となりました。

詩篇15篇は、14篇とは違って、神がイスラエルの民とともにいてくださること(神の臨在)をはっきりと語り、その証しとしてきよい生活があることを示しています。2節から5節には、極めて実際的な生活の勧めが記されています。「主に捨てられたものを蔑み」と4節には厳しいことが書かれていますが、心底神様に従うことの大切さを逆説的に言った言葉であると理解できます。

1節の言わんとしていることは、「幕屋」と「聖なる山」にこそ神がおられるということです。幕屋とは、イスラエルの民の行く先々で建てたテントであり、神を礼拝する場所でした。モーセによるエジプト脱出から始まる荒野を放浪している時代から始まり、カナンの地にイスラエルの部族が定着するまでの期間にありました。聖なる山とはシオンのことで、エルサレムに建てられた神殿と言ってよいでしょう。ダビデが準備をし、その子ソロモンが神殿の建築を完成させ、奏献の祈りが1列王記8章に書かれています。

幕屋も神殿も、神の臨在の象徴でした。実際には人の手で作った建物の中に神を入れることなどできないことは、ソロモンの認識しているところでした。創造主である神様は、時間や空間に制限されるお方ではありません。どこにでもおられ、神を信じる者とともにいてくださる方なのです。

イエスキリストの救いの御業によって、信者は神の宮とされています。

  1コリント6:1920.あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あ 

 なたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや

 自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたので

 す。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

幕屋や神殿は今はありませんが、日常茶飯事にあっても神様がおられることを忘れてはならないのです。神の臨在こそが、私たちをどんな境遇にあっても支えてくださる力となるからです。

2019年1月27日 (日)

神はいない、と言う者  詩篇14:1-7  2019.1.27

40年近く前に発行された森本哲郎氏の本に「そして文明は歩む」というのがあります。神の数で語った宗教文明論ともいうような内容で、大変興味深く、今も時々見ることがあります。森本氏によれば、以下のように分類しています。

ユダヤ教、イスラム教→一の文化

易経(中国)→二の文化

キリスト教→三の文化

インド→無の文化

日本→万(よろず)の文化

キリスト教を元としているヨーロッパ、アメリカの文明を、一ではなく、三としているところが面白いのですが、今日はおいておきましょう。日本では、確かにあらゆるものが神となる、神羅万象あらゆるところに神がおられる、といった感覚であると思います。もっとも、禅宗は突き詰めると無の世界、神はいないとする世界観ですが、そのようなことにも捕らわれないとするのですから、独特の世界観だと思います。

詩篇の14篇では、神はいないと心の中で言う者は、愚か者であるとまず言っています。宣言しているような感じです。これは、知的なことで神の存在を否定しているのではありません。神がおられるのに、その神に心を向けない、全く関知しないで生きている、そういうことが愚かなことであると言っているのです。ここで言う神は、お正月の教会の床の間に掛けられていた「神」の軸が現している、神です。創造主であり、全能の方であり、一人でありながら三つの位格を持つお方です。そのご性質は聖であり、愛に富んだ方でもあるのです。

神がご覧になる世界の人たちは、皆が離れて行っています(3)。この言葉は、わき道にそれるという意味で、新約聖書にあてはめれば、的外れという意味に近いと思います。聖書で言う罪はまさに的外れということであり、ローマ3:23にある「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」というみ言葉を思い起こさせます。

神様を信じていると言っても、心の中で神はいない、と言ってしまうことがあるのです。信仰が、板についていないのですね。信仰と不信仰の間を揺れ動くことがあって、それは当然のことなのです。神に問い、信仰を探っていく、そのような中で、神様に深く根差していくことができるのです。神はいないと言う者の中で、こんなひどい状況を観ても神は何も言わないのか、と問う中で、キリスト者の信仰は深められていくのです。

2019年1月20日 (日)

逃げ場  詩篇11:1-7  2019.1.20

 昨年、長崎の潜伏キリシタン遺跡群が世界遺産に登録されました。キリシタン殉教の歴史は、ステンドグラスの入った教会のたたずみと合わせて、ロマン的歴史として語られるかもしれません。しかし当時の吟味、取り調べは過酷なものでした。映画にもなった遠藤周作氏の「沈黙」に登場する井上政重、通称築後守は、キリシタンや宣教師、神父を捕らえて処刑するというこれまでの方針を変え、彼らを棄教させる、つまり転ばせることに精力を使いました。私なりに彼のその方針にあるものは、キリシタンたちが信じている神などいないではないか、ということを示すことにあったと思います。「神がいるならば、どうしてこんなひどいことが起きるのか、神がいるならばこの苦しみから救われるはずではないか、しかし神は何も言わない、お前たちの信じている神などいないのだ!」ということでしょう。

 詩篇11、そして14篇は、信仰者に神の不在、神を信じることの愚かさを訴えている人に対し、主なる神は確かにおられ、その方のもとに安らぐことの幸を歌ったものです。11篇の背景は、作者が何者かに追われ、そこから逃げている出来事があったと思われます。3、7篇の表題と似ていますね。たしかに、逃げることなく立ち向かうことは大切なことです。過日引退を表明した稀勢の里関は、自分の立場から逃げることなく最後まで綱を張った力士であったと思います。

 しかし時には、逃げなければ、あるいは避けなければ自分の命を失うことがあります。大切なのは、逃げ場や避難所はしっかりと保護してくれるところであるかどうか、ということです。この詩篇の作者、それはダビデであると思われますが、主なる神様こそ私たちを守ってくださる真の避け所であると歌っています。

 「鳥のように自分の山に飛んでいけ」とは面白い表現です。丘の上教会の東側には、森があります。そこは野鳥のねぐらとなっています。朝にはキジの甲高い声が聞こえ、夜にはフクロウの低い声が聞こえてきます。新聖歌313番は、このテーマをうたった讃美歌と言えるでしょう。「鳥のごと山に逃げよわが魂、真清水は傷を たちまち癒さん、仇びとは間近に攻め来る時も、救い主そばにませばなど恐れん、ませばなど恐れん」

 聖書には、預言者をはじめ多くの人たちが逃げ場を持ち、そこに身を避けることによって癒されて再び立ち上がる様が描かれています。キリスト教会では、リトリート(退修会)、サバティカル(安息)といった呼び名で、普段の生活から離れて静まり、再び立つ力を受ける期間を持つことが勧められています。どのような困難があっても、身を避ける場所がある。誰が何と言おうと、主なる神が私たちの逃げ場となってくださっているのです。

2019年1月13日 (日)

教会を通して広まる福音  使徒11:19-26  2019.1.13

本日は、東地区7教会による新年聖会、合同の礼拝が越谷で持たれる日です。今回のテーマは「キリストにあって一つ-教会の多様性と一致」であり、浦和教会の坂野慶吉先生が説教をしてくださいます。また、一つであることの表れとして、聖餐式も行われることなっております。事情があってその時間に集うことのできない兄姉のために、そのことを心に留めながらの礼拝であり、説教です。

日本に福音が伝えらえれ、教会が生み出されたのは、1549年です。一番最初の教会は、イエス様昇天後聖霊が下った約2000年前、エルサレムに生まれました。いわゆる初代教会です。そこから福音は全世界に広まって、今日に至っています。この福音は、人から人へ伝えられていったのですが、教会を通してのことでした。個人的にお伝えする、というようなことではなかったのです。

本日のテキストは、初めはユダヤ人しか知らなかった福音が、言葉の違いや国境を越えて、当時の地中海世界にあるギリシャ語を話す人達(ヘレニスト)に広まっていったこと様子が描かれています。その拠点となったのは、アンティオキアにある教会でした。ローマによってエルサレムは占領され、神殿は破壊されました。ユダヤ人は離散の民となりました。エルサレムあった神殿礼拝を基にしたユダヤ人中心の交わりから、ユダヤ人以外の人達(異邦人)が集まる教会が多くなっていったと思われます。イエス様が命じられた「全世界に出て行って福音を伝えよ」との言葉をダイナミックに実践したのが、アンティオキアの教会といえるでしょう。この街で、イエスを信じている人たち、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれたのです。英語で言えば、クリスチャンですね。キリスト+イアン、ということで、キリストに付く者、キリストに従う者という意味です。春日部の町を愛する人をカスカビアンと言うのですが、同じ発想です。地域を越えて、教会が生まれ、形造られていきました。

福音の宣教は、教会を通してなされたのです。なぜでしょうか?それは、わたしたちの主イエスが愛されたのは、教会だったからです(エペソ5:25)。このイエス様による教会への愛は、今も変わることがありません。キリスト教2000年、日本のキリスト教史約570年の中で、教会が生まれ今日に至っています。祝福とともに、いろいろな困難も抱えています。負の歴史の部分もあったことでしょう。今年、2019年は日本の歴史の中でも大切な年になるような気がいたします。そのような時代で、教会はその使命である福音を宣べ伝えることをやめることはできません。教会は、わたしたちの主が命を懸けて愛してくださった、キリスト者の群れであり、全世界の教会は同じ愛と使命を持っているからです。

2019年1月 6日 (日)

小さい者であることを悟る  詩篇8:1-9  2019.1.6

主イエスキリストの2019年、明けましておめでとうございます。本年も説教要約をつづってまいりますので、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

昨年「日日是好日」という映画を観ました。同名の小説を映画化したもので、樹木希林さんが全身がんに侵されながらも茶の湯の先生として出演されたことで、話題になりました。その一場面に、床の間に「瀧」という一文字が書かれており、そこから主人公が堂々と流れ落ちる滝をイメージするシーンがありました。軸はたとい読めなくても、眺めれば良いものだということを語る場面です。

丘の上教会の新年茶会では、「神」という一文字の軸が掛けられました。筆の最後はすうーっと下に引かれている、本田弘慈先生による書です。さて、この軸を観る人は、どんな「神」をイメージするでしょうか。映画のように映像で描くと、どのような場面になるでしょうか?

本紙には、創世記171節とあり、99歳になったアブラム(のちにアブラハム)に語られた神様の言葉で、ここに書かれている神とは全能の神であることがわかります。詩篇8篇の1節、3節にあるように、この世界のすべての基である神を表しています。それに比して、人間はなんと小さい存在でしょうか。しかしそんな小さな存在であっても、神が目を留めて生かしてくださっているということを歌っているのが4節の言葉です。

30年もの長きにわたり原因の分からない病に苦しんでいたある方が、こう書いておられました。「私は本物の宗教に出会えたと思う。それは自分がいかに小さいかということを知ることであった。…宇宙のなかの小さい自分に気づいてみると、自分が宇宙の懐に抱きかかえられているように感じられた。…何でもないことであった。この一つに気づいたことで、私の心はすっとほどけた。」その方の病の原因が後にわかり、病そのものを抱えながらも、良き隣人の支えもあり癒された日々を送っておられます。

これはまさに、待降節で学んだ、乙女マリアの心境でもあったと思います。小さな自分であることに気づくことは、実は圧倒的に大きな神様の懐に抱かれ、自分らしく生きていく力と希望を与えられることなのです。神様は、この小さな人間に、この世界を正しく治め、管理することを命じられました。不遜にも、おのれの力を過大に評価し、この世界を自分のものにしようとしたところに環境の破壊があり、独裁・恐怖政治が行われ、経済の営みにも格差が生まれてしまうのではないでしょうか。

小さい者であることを悟れば、自分だけでなく、他の人をも大切にする、そしてお互いが支え合って生きる喜びを知っていけることでしょう。

2018年12月30日 (日)

癒されて新しい年を迎える  詩篇6:1-10  2018.12.30

この時期になると、無病息災家内安全商売繁盛を願う風景が見られます。大掃除をして家を清めて、すがすがしい気持ちで新年を迎えたいとは、誰もが願うことでしょう。

詩篇6篇は、作者がとてもつらい状況に置かれており、神の怒りが自分に降ったかのように感じている詩篇です。そのような中で、癒しを求め、救われることを切に願っているのです。この詩篇は、7つの悔い改めの詩篇の一つに分類されています。ポイントは、悔い改めるということです。いわば、こころの大掃除です。しかし汚れを落とすというのではなく、神様のとの関係を元の正しい関係に戻し、神様に従って歩む決心をするということです。

「わたしを癒してください」とあることから、詩人は大きな病を抱えていたのかもしれません(2)。ヘブル語聖書で病気を表す言葉の一つは、「打つ」「触れる」という言葉から派生したものです。病気という概念の最も基本的なものは、(神様も含め)何かに打たれるということだと考えられます。ですから、病が重ければ重いほど、何かの原因で自分は打ちのめされたのではないかと、考えてしまうのは当然のことでしょう。だれでも、無病息災を願います。病をおっていたら、癒されて元気になることを願うのは、世の東西を問わず、全世界で共通のことでしょう。病が癒されるということは、悪い患部が治るということよりも、私たちを打つことすらできる神様との関係が正されることであり、それが完全な回復であると思います。

またこの詩人は、敵対する者や悪を行う者を恐れていたと思われます(78)。彼に危害を加える人がいたのでしょうか。聖書では、最後の敵は死である、と言っています(1コリント15:26)。とすると、死の恐れから解放されるのは、神様との正しい関係を取り戻さなければできないこととなります。人が病み、そして死ぬ存在であるのは、突き詰めれば神様との正しい関係を失った罪びとであることにその原因があるのです。

その解決は、人として生まれてくださり、十字架上で死なれたイエスにあります。イエスは人の罪を負った方でした。イエスが受けられた傷こそが、わたしたちを癒すのです。1ペテロ2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」

癒されて新しい年を迎えるとは、悔い改めて神様との正しい関係を回復して、新しい年を歩むということに他ならないのです。2019年も、豊かな祝福がありますように。

2018年12月 9日 (日)

神の目に留まる者 ルカ1:39-56  2018.12.9

降誕祭、クリスマスの物語に方向があるとすれば、それは上から下ではないかと思います。高い所におられる神様が、低いところにいるもののために降って来て、その人を引き上げてくださる、というイメージです。

本日の個所、特に4656節は、エリサベツに出会ったマリアが歌った賛美で、その出だしのラテン語を取ってマグニフィカトと言われています。ベツレヘムにある訪問教会の壁には、24か国語で書かかれたプレートが貼ってあります。日本語もありました。

主の降誕物語のキーワードの一つは、ダビデという言葉です。イスラエルの最も偉大な王であり、ダビデ王家の家紋は、現イスラエル国旗の紋章として描かれています。イエスは、アブラハムの子孫であるとともに、ダビデの子孫です(マタイ1:1)。マリアの夫ヨセフも、ダビデの家系でした(ルカ1:27)。東方の博士たちは、新しい王が生まれたことを知り、王宮のあるエルサレムを目指してやってきました(マタイ2:1)。実際にはベツレヘムで生まれたのですが、そこはダビデの誕生した町でもあることからダビデの町とよばれ、羊飼いは救い主と会うためにベツレヘムへの急いだのです(ルカ2:11)

このようなことを考えに入れると、その母マリアは王を生んだ母ということですから、とてもえらい人、ということになるでしょう。しかしマリアは、自分をそのような者であるとは思わなかったのです。もっと身分の高い、王宮に住むような人こそ、それにふさわしいことだと考えていたのではないでしょうか。マグニフィカトを読むと、マリヤは如何に自分を低いものとして捉えているかがわかります(48)。しかし、決して自分を卑下してはいないのです。そのようなものに目を留めてくださった方(心にかけてくださった、という訳もある)を覚え、賛美しているのです。低いものを引き上げてくださる、それはまことの神様であり、その方に思いを向けているのです。

イエスキリストは、神である方なのに、人としてこられた方です。生涯の最後は死刑であり、しかもその場所はユダヤ人にとっては呪いの場所である木の上、十字架でした。ユダヤ人社会で起きた出来事であることを思うと、これ以上辱められ、低いところに落とされることはないのです。しかし、イエス様が低いところに降って来られたからこそ、私たちを引き上げてくださるのです。それは、復活の主の力です。

低く打ちのめされた者でも、そこから主を見上げることができれば、その人こそ神の目に留まる者なのです。

2018年12月 2日 (日)

荒野で神を信じる  ガラテヤ3:7-14  2018.12.2

降誕祭、第1主日を迎えました。イエスの誕生の物語は、マタイとルカの福音書に書かれています。新約聖書、1ページ目の第1(マタイ1:1)は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」とあります。三浦綾子さんの小説「塩苅峠」には、このマタイから聖書を読み始めた主人公がいつの間にか眠ってしまうというシーンが描くように、私たちにはわかりにくい人の名前が続いている、あまり面白くない箇所であると言えます。

しかし、「アブラハムの子孫」という書き出しこそ、イエス様が人としてお生まれになったことを表す重要な書き出しなのです。アブラハムは、民族で言えば、ユダヤ人、アラブ人の先祖となります。本日のテキストの次にある4:22には「アブラハムには二人の子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた」とあります。アブラハムには長く子供がいなかったので、彼に仕えている女によって男子を設けます。それがイシュマエルであり、アラブ人の先祖と言われています。妻であるサラにようやく子供が与えられ、イサクと名づけられました。ユダヤ人の先祖である、ということです。宗教的にみれば、かなり大雑把な言い方で申し訳ないのですが、ユダヤ人はユダヤ教徒、アラブ人はイスラム教徒といえます。イスラム教徒にとってアブラハムは、偉大な預言者の一人です。

アブラハムは荒野で神の声を聞き、神を信じ、それが彼の義と認められるところとなりました(6節、創世記15:6)。この神を信じる人、言い換えれば、人としてこられたイエスキリストを信じる人キリスト者は、霊的にアブラハムの子孫と言えます。それがこのガラテヤ3章で語られていることであり(14)、ローマ人への手紙4章でも言われていることです(ローマ4:16)。アブラハムを共通の父としているユダヤ教徒、イスラムの人達、そしてキリスト教徒は、このことを出発点として親しい交わり、平和な関係を築けるのではないかと思います。

それはひとまず置いておくとして、ヨハネの語るクリスマスを見てみましょう。ヨハネはイエスの誕生を物語ではなく、その意味、神様からのメッセージを書いています。イエスはまことの光であり、言葉であり、そして命を与える方です。このイエスを信じる者は、人の思いからではなく神によって生まれた者であり、神の子供とされるというメッセージです。あなたにも誕生の物語があり、家族の歴史があるでしょう。受け入れがたいこともあるかもしれません。アブラハムが旅をした荒野とは、神の言葉を聞く場所です。荒野のような人生であっても、まことの言葉であるイエスがおられるのです。イエスキリスト誕生の物語は、このイエスに言葉を聞いて信じる、私たちの物語に重なっていくのです。

2018年11月23日 (金)

罪びとを救う十字架の言葉  ルカ23:33-43

本日の個所は、救いの物語が明確に述べられている箇所の一つです。

ゲッセマネの園で捕えられたイエスは、夜のうちに裁判を受け、人々の手に渡され、死刑にされるために、自分がはり付けられる十字架を担いで刑場へと歩いて行かれました。その場所はどくろと呼ばれるところでした。エルサレムには、イエスが十字架につけられ葬られた言われている場所が二つあります。郊外にある園の墓と呼ばれているところは、文字通りどくろのように見える丘の近くにあります。もう一つは、聖墳墓教会のドームの下にある場所で、建物に覆われています。しかしこの二か所に共通しているのは、死人を葬る墓ではあるのですが、イエスの復活を証しているのです。どくろは、人の死を表しています。しかし、イエスを信じるものは、死んでも生きるという復活の信仰をいただいているのです。

イエスのつけられた十字架の両側には、極悪人が二人つけられておりました。一人は、イエスをあざける群衆と同じように、イエスに悪態をついていました。しかしもう一人は彼をたしなめ、イエスにこう言うのです。どうかわたしを思い出してください、と。

これは、自分の悪事をみとめ、イエスにお詫びをしている姿です。罪の悔い改めと、イエスを信じる信仰の表明です。それに対してイエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と応えられました。パラダイスとは、神様とともにいる場所です。天国と言っても、良いと思います。罪(つみ)というのは、いわゆる悪事であったり、人の心の中にある悪い思いというのではありません。神様から離れ、わがままな自己中心な思いのことです。この罪をわびてイエスを信じる者は、救われるのです。

十字架の下で、イエスの着ている物をくじ引きで分けていたのは、イエスを十字架につけたローマ兵でした。しかし、十字架につけた者とは、罪を持っている私たち全員なのです。もっと端的に言えば、あなたがイエスを死に追いやったのです。

イエスはこのような私たち罪人を救うために、まず赦しの祈りをされたのでした(34)。くだんの犯罪人はこの言葉を聞いたので、イエスに救いを求めたのかもしれません。イエスを信じる者は、皆、救われるのです。

東方教会(ギリシャ、ロシア正教)の十字架は、八端十字架と言われます。普通の十字架より、2本、線が多いのです。上には罪状書きを表す横線、そして足元には、斜めになった線が書かれています。上に上がった部分は救いを表しますが、下に下がった部分は、悔い改めることなく裁きに下さることを表しているのです。

Ⅰコリント1:18

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

 

2018年11月18日 (日)

朝を迎える幸い  詩篇3:1-8  2018.11.18

 独身時代の時、いわゆる夜逃げをしてきた家族と一緒になった時がありました。その人たちはどうなったのかなあと思ってしまいますが、何かにおわれているという感覚は、あまり良いものではないでしょう。

 本日の詩篇は、あろうことか王であるダビデが、息子の一人であるアブシャロムに追われて逃げていたときの歌です。このような表題は後世につけられたものなので、詩の背景を必ずしも正確に表していないかもしれません。しかし、詩篇の内容を理解するためのリアル感を与えるもので、読む者には役立つものです。ダビデがアブシャロムから逃れている様子は、2サムエル15-17に記されています。

 この物語は、ダビデは助かってエルサレムに戻り、アブシャロムはダビデの家来に打ち取られてしまう、という結末を迎えます。ダビデの逃亡先は、ヨルダン川の東側、ヤボク川に面したマハナイムという町でした(2サムエル17:24)。ダビデは王宮を出たのち、オリーブ山を登って降りて、荒野を通ってヨルダン川を渡り、マハナイムに着いたのでしょう。

 12節には、自分の周りは敵に囲まれていて、命の危うい様子が描かれています。しかし3節で、神は自分を守る盾のようなお方なのだと歌います。主に呼ばわっているダビデには、聖なる山、シオンから助けがある、すなわち、神の助けがあると4節に歌っています。そして、56節では、このような危険な目に合っても安心して眠ることができる、そして翌朝目を覚ますことができる幸いを歌っているのです。

 枕が変わると眠れないとか、真っ暗だと眠れないとか、朝の目覚めが悪いなどという方がありますね。眠りたいのに眠れない、という方も結構おられます。しかしダビデは、王宮の豪華なベッドではなく、岩がごつごつところがっているような荒野でも、ゆっくりと眠ることができる、と言うのです。医学的にどうしたら安眠でき、翌朝気持ちよく目覚めることができるのか、私は良く知りません。しかしここでは、敵に囲まれ、命を狙われているという危険極まりない状況の中でも、神様に信頼している信仰の故に、ゆったりと休んでいるダビデがいるのです。

 私たちも、信仰から来る平安を、いただくことができるのですね。78節は、自分の命を狙う敵を、滅ぼしてくださいという願いです。しかし、ここで考えてしまいました。ダビデの子アブシャロムは父に反逆し、人々の歓心を買って、自ら王位につこうとしていた人物でした。しかし、このような彼にはつらい過去、ある意味同情できることがあったのです(2サムエル1314をお読みください)。ちょっとこれは、アブシャロムに対して、厳しすぎるのではないかと思うのです。しかし、救いは主にあり、神の祝福がある。そこに目を向けたいと思います。

 

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー